延元三年以
北畠顕家卿、現岩出山の小倉城を築城か
延元三年 一三三八 9月 北畠親房、顕信、義良、宗良親王を奉じ伊勢より東国を目指す
が海難に遭い、義良親王と顕信らは伊勢に戻る。
延元四年 一三三九
大塔宮、石巻の多福院に「吉野先帝御菩提碑」を奉納。
興国元年
 
一三四〇 春ごろか 顕信、関東に下る
10月か 顕信奥州に入る(石巻の日和山城に将軍府を置いたか)
興国二年 一三四一 3月か 南部政長、滴石(戸澤氏)、和賀氏、河村氏と組み、栗屋河城
(厨川城)を攻め、稗貫出羽前司などを討ち取る。
興国三年 一三四二 10月か 南朝方、栗原郡三迫に出陣し、五カ所(三迫、津久茂橋、成田、
新山林、二迫の八幡)に要害を築く。
10月か 奥州探題石塔義房、三迫に出陣する(三迫合戦)。戦いは20日
程度で終わり、南朝方の要害はすべて落ちる。
興国四年 一三四三 春頃か 顕信、将軍府を石巻から南出羽(庄内の藤島城や立谷沢城か)
に移すと推定。
正平元年 一三四六
顕信、南出羽から岩手郡滴石に駐留したとみられる(前年から
の行動か)。
大塔宮、石巻にて逝去(石巻における大塔宮伝説による)
正平二年 一三四七
新任の奥州探題・吉良貞家、南朝方の拠点である宇津峰城、霊
山、藤田城を攻略する(注参照)
正平三年 一三四八 11月 新任の奥州探題・吉良貞家が平泉に一月滞留する(顕信の滴石
再駐留の可能性に対処か)
正平四年 一三四九 3月 吉良貞家、「糠部滴石凶徒対治」を発動、岩手郡南を占領し、こ
の時に「上田城」を築いたか。
正平五年 一三五〇 1月 吉良、三丁目城を発し名生城の畠山国氏を攻める。畠山氏敗れ
て府中の岩切城に逃亡し留守家任を頼るも吉良の軍勢に攻め
られ、国氏、家国ら、塩竃神社にて自刃(岩切合戦)。
3月か 南朝方、「上田城」を攻撃、包囲するも長期化し、滴石に居た顕
信、和議工作を進めるか。
8月 南部政長、死去。顕信はこのころ南出羽に遷り、府中奪回作戦
を準備中と推定できる。南部信濃守は仙南に居たか。
正平六年 一三五一 5月 吉良、軍勢を南出羽に派遣し、顕信勢と交戦と伝える。
10月 内親城(白石市内親字館山伊達)を拠点とし、刈田、田村の南朝
方、吉良貞家及び相馬親胤等の北朝方と刈田郡倉本川に戦う。
当時の戦地は津田、小下倉、郡山、深谷、宮、小奥地方より柴
田郡船岡辺りまでであったという。
顕信、船岡城(柴田城)を陣所にしていたと伝わる。
11月 奥羽の南朝方、一斉に府中奪回作戦を起こし、宇津峯宮、山村
宮を奉じて府中奪回に成功する。顕信は府中城に入ると伝える
がその可能性は低いとも考えられている。
11月 顕信、吉良貞家・貞経父子と天童の阿谷(現・荒谷アラヤ)で会
戦し、敗走せしめる(天童・北畠神社)。
正平七年 一三五二 3月 吉良、米倉城(現古川市)から府中奪回作戦を起こすが、三月、
三迫の黒沼城(中田町)に向かう途中、南朝方と見られる葛西伯
耆守(詳細不明)と佐沼(迫町)、橋本で合戦。葛西家にもまだ南
朝方がいたと見られる。
気仙沼において、南朝方(熊谷氏か)と北朝方(多田三郎左衛門
尉・・・北朝に寝返ったと思われる)とが戦った模様。
3月 吉良の主力は持渡津(塩竃か)を経て府中に突入し、府中城
後詰めの小鶴城南目館などを奪回するが、南朝方は山村城
小曾沼城、一名坂城などを確保、一年にわたる合戦となる。米
倉城は南朝方に攻められていたようであるが、南朝方が引いた
ことで、吉良方が府中に入ったようである。
正平八年 一三五三 1月 吉良、南朝方が確保していた山村城小曾沼城吉田城などを
落とす。山村城の南部伊予守や浅利尾張守は降り、吉田城の
中院大納言、神山相馬は脱出。山村宮は戦死。
7月か 顕信、石川郡にわたって活動する。宇津峰城に入ったのはこの
時期か。
7月か 吉良、宇津峰城を攻める。顕信は出羽(藤島城などか)に退く。
この間に伊達氏も北朝に転ずる。12月ごろ、吉良貞家死去か。
正平十一
一三五六
奥州探題に任命された斯波家兼(大崎探題)、庄内を藤島城な
どを攻める。顕信、南出羽を放棄し、飽海郡以北に将軍府を移
す。
正平十三
一三五八
顕信、出羽大物忌神社に由利郡の所領を寄進する。
斯波探題、羽州守護として斯波兼頼を庄内に置く


参考図書
 『史料解読 奥羽南北朝史』 大友幸男氏著 三一書房 199610/15初版発行
   「北畠顕信略年表」487頁

 『仙台領内古城・館』 紫桃正隆氏著 宝文堂出版 

注)通説では宇津峰城には三迫合戦後から正平二年まで在留ということであるが、この年表で
は大友氏説に従い、この時期は滴石に居るものと考え、宇津峰在城は正平八年七月のことと
した。
北畠顕信年表〜書状篇〜
北畠顕信年表〜書状篇〜