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仙台市から利府という所に行く途中に、「岩切」というところがあります。ここは南北朝時代、顕
家卿が多賀城から霊山に移った後、北朝方の留守氏がいたのですが、南朝側にもよく攻めら れていたようです。南北朝時代の多賀城は現在では使われていなかったとする見方が多く、そ の代わりに国府を置いたのは、岩切城ではなかったか、といわれています。
岩切城は三郭からなる山城で、結構広いらしく、国府としての機能も果たせるほどの規模であ
ったようです。岩切城は別名「高森城」、「鴻の館」とも呼ばれていたそうです。現在は県民の森 の一部になっており、さまざまな設備がありますが、城の部分は綺麗ではあるけれど変な整備 はされてないそうです。
訪れた時は夕方ちかくて、それにオナゴ一人ではちょっと怖そう、という感じでしたので、周囲
を撮るだけで断念しました。
県民の森駐車場近くにあった説明板です 石垣です。見えますでしょうか。
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県民の森のところの説明板の内容を記します。
別名を高森山、鴻の館とも伝えられる。仙台市岩切入山と利府町神谷沢にまたがり、急峻な
地形を生かした典型的な中世時代の山城である。
平泉藤原氏の滅亡後、源頼朝は重臣伊沢将監家景を陸奥国の留守職に任じた。伊沢氏は留
守姓を名乗り、岩切城を居城とする。七北田川の水運にも恵まれたこの地は、東北地方の政 治、経済の中心地として大いに栄えた。貞和二年(1346)、足利尊氏は奥州管領として吉良 定家、畠山国氏を任命するが、足利家内部で兄尊氏と弟直義の対立が激化すると、両者も二 派に分れて争うことになる。留守氏は畠山氏、宮城氏とともに尊氏側に加担したが、正平六年 (1351)ここ岩切城の合戦に敗れ、岩切城は落城、留守氏は衰えた。
その後、留守氏は伊達氏と親族関係を結んで勢力を回復、藩政時代は水沢に一万六千石を
領し、一門格に列せられた。
なお、岩切城は元亀年間、留守氏が居城を利府城に移すとともに廃城になっている。
畠山と吉良との岩切合戦は正平5(1344)年1月のことであったようで、このような北朝側の
内部分裂をみて、顕信卿は正平6(1345)年11月ころに、南出羽から府中奪回作戦を決行 し、宇津峰宮、山村宮といわれる宮方を奉じ、奪回に成功したと言われています。通説では顕 信卿も岩切城に入ったということになっていますが、奪回直後の城に将軍自らが入るとは考え にくい、という説もあります。
岩切城へは県民の森まで行かず、途中の田んぼのあぜみちをまっすぐ行くと、「岩切城跡」と
いう目印があり、そこから入っていくのが良さそうです。ただし、車を置くところはありません。
目印です この先の山が岩切城です
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南朝方は奪回に成功したものの、山村宮はこの戦で戦死したようで、宮城野区福室のお寺に
ある「正平親王碑」が宮の墓だと伝えられています。山村宮という宮がいったいどなたであった かというのは史料が残っておらず、謎となっています。宇津峰宮も大塔宮兄・尊良親王の長子 の守永親王という説もありますが、やはり謎となっています。
岩切城近くには、W杯会場となったスタジアムがあり、大きな道路が建設されました。下の写
真はその道路から撮った、岩切城です。 ![]()
『史料 仙台領内古城・館』(紫桃正隆著 宝文堂出版)によると、このような城だったということ
です。 ![]()
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