山村城跡といわれるところに行ってきました。
場所としては北中山(実沢サネサワ)という住宅地の側で、七北田川の南岸ぎりぎりのところにあ
ります。通称「ウケスケ山」というそうで、東西350メートル、南北170メートルほどで、山頂が 二つあります。
この山村という土地は、兄顕家卿のころからの国司方であった大河戸氏の所領のあったとこ
ろでもあり、南朝色の強い土地であったようです。ただし、岩切合戦で没落した留守氏の所領 もあったようで、正平六年10月7日付けの顕信卿教書には大河戸四郎左衛門尉に一時預か りとしているようです。この一月前、9月の時点では北朝方、吉良貞家の影響下にあったようで す。一ヶ月ほどで南朝方の拠点となるあたり、府中奪回における重要拠点としたのでしょう。
側には農業用?のダムがあり、入れませんでしたが、階段が見えました
観応の擾乱に関わる岩切合戦によって、北朝側の足並みが乱れているのを好機とし、南朝方
は府中奪回作戦に打って出るのが正平六年10月以後です。ここには「山村宮」と言われる宮 方が入ったようです。『泉市史』によると、「北畠守親をはじめ、仲院刑部秀仲、多田左近将 監、地元の大河戸四郎左衛門等が籠って、北朝方に対抗したという」(前掲書931.932頁) とあります。「山村宮」は正平七年の南福室の戦いで戦死、福室にある西光寺の「正平親王 墓」がその墓とされています。
左の山がそれで、右はすぐ七北田川です 少し離れて車中から撮りました
ここから府中城奪回が行われ、南目館を攻撃し、または一名坂城、小曾沼城を確保していっ
たようです。正平七年からは北朝側による、再奪回がなされるわけですが、最後の砦として残 るのが、この山村城でした。府中城が北朝方に攻められた正平七年三月の十一日には山村 城から中院殿と多田左近大夫将監が小鶴城に出陣しております。府中城は北朝方に奪回され てしまいますが、一名坂城と小曾沼城は正平八年1月18日、山村城は正平八年1月19日ま で持ちこたえます。
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