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正平七年3月15日に府中(岩切)城などが北朝方に堕ちましたが、南朝方は山村城を拠点と
し、その出城である一名坂城と小曾沼城とを確保しておりました。中心となっていたのは、『泉 市史 上巻』によると、大河戸氏の残兵であったようです。書によると「山村王亡きあとなお孤 忠を守る大河戸一族の残兵は、山村城(山邑城)の出城でもあった市名坂城(七北田小学校 あたりか)と小曾沼城(高玉あたりか)を死守したが及ばず攻略され、さらに本拠山村城も陥落 した(鬼柳文書)」(前掲書 163頁)とありました。その他には南部伊予守、浅利尾張守という 人も山村城に籠もっておりました。
一名坂の名は現在では「市名坂」となって残っておりますが、跡地と思われる小学校は七北田
という地名です。このあたりは七北田と市名坂とが入り組んでおり、とてもややこしいところにな っています。
この地域は七北田川を北に渡ったところとなり、防衛上重要な地域のように思えます。
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一名坂城跡といわれる七北田小学校です。今は立て替え工事をしているようで、あまり全体が
見えなかったのですが、すぐ隣には七北田中学校もあり、敷地としてはかなり広いです。 ![]() ![]() ![]()
小曾沼城跡といわれる、現在高玉という地名のところに行きました。ここは現在ダイエー泉店
が隣接しており、向かいは本の八文字屋泉店などがあります。もとは「獺(カワウソ)」の住む沼 (獺沼)ということだそうですが、往事の地形は後の七北田川の氾濫等で不明だということで す。ただし『泉市史 下巻』には「高玉稲荷社が、小曾沼の城跡に営まれたものとの伝承があ る」(前掲書 934頁)とありました。 ![]() ![]() ![]() ![]()
小曾沼城はもとは北朝の向城であったものが、南朝方に奪われていたようです。山村、小曾
沼城攻略を吉良貞家が発動したのが正平八年正月のことで、北朝方である和賀義綱、江釣 子城の野田七郎等の大軍の攻撃により(『泉市史 下巻』932頁による)、18日に一名坂城と 小曾沼城が、翌19日に南部伊予守の籠もる山村城が堕ちており、20日には黒川郡にある吉 田城(中院大納言などが籠もるとされている)が堕ちたそうです。この戦いによって南部伊予 守、浅利尾張守などが降参、中院大納言は脱出(鬼柳文書には「没落」とあります)したようで す。
この戦いによって宮城野周辺の拠点を南朝方は失うことになります。勢いに乗った北朝方は、
7月以降、宇津峰城を徹底的に破壊します。 ![]()
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