正平四(1349)年、観応の擾乱が勃発しました。このことは京都・鎌倉だけでなく、東北の地
にも大いに影響を及ぼしました。まず、同じ北朝側であるはずの、探題吉良貞家(直義派)が 同じく探題畠山国氏(尊氏派)を攻めました。畠山国氏は破れて岩切城に逃れ、留守家(岩切 城主)を頼りますが、そこも破られ、留守氏と畠山氏は没落します。
この混乱に乗じて、南出羽にいたと思われる顕信卿周辺の動きが活発になってきます。そのこ
ろから府中城奪回の動きがめまぐるしくなってくるようです。そして正平六年十一月に、いった んは府中城を奪回しますが、翌年(正平七年)、また吉良側の猛攻にあい、府中城が奪われま す。それ以後、宮城野は一年あまり、戦いの舞台となります。
岩切城についてはこちらを→ 北畠顕信卿関連史跡〜宮城野篇〜
今回は正平七年の吉良の猛攻によって戦いの場のひとつとなった南目館跡に行ってきまし
た。ここは現在は自衛隊駐屯地ということで、なかなか勇気が出なかったのですが、せっかく近 所に住んでいるのだから、ということで(演習の発砲音がよ〜く聞こえる距離に住んでます)、 行ってきました。
受付で事情を説明し、デジカメに撮らせてほしい旨を伝えたら、難なくOKが!結構広いので、
自転車で案内します、あとからついてきて下さい、といわれました。で、あとをついて行くべく、 受付を出ましたら、「遠いので、車で行って下さい」と・・・。石碑は慰霊碑の裏側にありました。
石碑はちょうど木々の茂るこんもりした丘(といってもさほど高くない)上にありました。石碑自
体は2メートルくらいでしょうか、結構大きいんですが、超マイナー史跡ですよね・・・。
周りは小さな祠などがありました。石碑脇には仙台市の説明板がそばにありました。
説明板内容です
南目館は、伊達氏以前の領主国分氏が領内各邑に国分三五城といわれた支城を構えたが、
これもその一つで、国分氏千代本城(後の仙台城)の前衛基地であったと伝えられる。国分氏 の祖先は、源頼朝の奥州征伐に従い、のち国分氏を称した千葉胤道で、以後盛重まで一七代 四〇〇年間に亘り、当時の宮城郡を領有した。
南目館の規模は、東西一〇〇間、南北七〇間といわれるが、構築年代その他はつまびらかで
ない。国分氏は慶長元年(一五九六年)、三月政宗に討たれ、その没落とともに、この館も廃 墟となったものと思われる。
政宗が仙台城に移ったのは、慶長六年四月であった。 仙台市
で、南北朝のことが・・・ナイ・・・。南目館は国分氏の居城ということですが、南北朝期、特に吉
良と畠山との確執が表面化した時には、国分氏は吉良氏側に寄りました。領地が隣同士にあ る留守氏とはライバル関係なので、留守氏が畠山についたのなら、ということだったのでしょう か。どっちにしても一旦は、ここは南朝に攻められてしまうということです。
吉良の猛攻により、府中城とこの館は堕ちますが、一名坂城、小曽沼城や山村城(泉区七北
田や市名坂あたりにあるらしい)は残り、府中奪回を目指します。
中に入らせて下さって、案内までして下さった、自衛隊の皆様、ありがとうございました。
『史料 仙台領内古城・館』(紫桃正隆著 宝文堂出版)によると、このような城だったようです。
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