宮城県石巻・大塔宮伝説めぐり2

次に訪れた所は、吉野町よりやや南下したとこにある、「一皇子宮神社」です。石巻は熊野修
験の拠点となっていたそうで、葛西氏も有力な檀那であったそうです。この神社も修験のお寺
であったのが、神仏分離で神社になったようだと『史料解読 奥羽南北朝史』(大友幸男 三一
書房 1996 206頁)にありました。

このあたりは「御所入」「隠里」など、なんとなくいわくありげな地名が多くのこっています。
ちょっと細い道を入ると、「一皇子宮神社」がありました。

神社の鳥居です。              「御所入」という地名です。  

      

神社は普通の寂しげな神社なのですが、鳥居横には石巻の南朝を調べている会なのか、そう
いう団体の方々が建てた、大塔宮と石巻と、この神社との関連が、石碑になってありました。石
巻市にも問い合わせたのですが、石碑に書かれている文章の内容は把握してない、とのこと
でした。ざっと見ると、石巻の大塔宮伝説のことが書かれてました。

資料から話の概要を記します。

親王殺害を命じられた渕辺義博は、おそれおおいと思い、自分の領地(相模原市)に一時匿
い、部下として渕辺・日野・日下・平塚・福原・遠山・高橋ら7名とともに船で牡鹿湊に着き、櫻
川の河口から上陸、南朝方の葛西氏に保護されたとされてます。で、再起をかけたのですが、
病にたおれ、正平元(1346)年に亡くなった、とされているようです。

この神社には境内脇に宮の墳墓といわれる土が盛られた場所があります。

墳墓といわれるものです            鳥居横の大塔宮伝説を記す石碑です
      


石巻には義経伝説の「袖の渡り」や、幕末、土方歳三などが宿泊した「旧毛利邸」や榎本艦隊
が集合したといわれる「折浜」、志賀直哉生家跡など、さまざまな時代の史跡が残っています。





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