宮城県石巻には鎌倉の牢で足利直義の配下のものによって誅された大塔宮護良親王にまつ
わる伝説が残っています。今回はその史跡をめぐってきました。
最初に尋ねたところは、吉野町という地にある多福院です。石巻には板碑といわれる、卒塔婆
の前身のようなものが沢山残されており、尋ねた多福院にも八八基残っているとのことです。 板碑は中世、故人の冥福のために、または現世の安穏を祈って造立された石の供養塔のよう なものです。
この多福院には、後醍醐天皇崩御の報に接し、菩提を弔うために建立されたという、「吉野先
帝御菩提碑」という板碑があります。これは大塔宮が奉納したと言われているそうです。
寺正面にある、「吉野先帝御菩提碑」がここに
ある、ということを書いた碑です。本物の碑は
寺奥にあります。
右上の写真は境内の大日堂です。ここには大塔宮の陣中守本尊と言われる、大日如来様が
いらっしゃいます。頭上五角形の宝冠をつけ、法界定印を結び結跏趺坐するお姿で、桐材の 寄せ木造りで南北朝期の作とされてます。70年に一度開帳されるそうで、近年では平成10年 に開かれたそうです。お寺のパンフには丁寧にも白黒写真ですが載ってました。
で、目的の板碑なんですが、寺に入ったはよいのですが、どこにあるのかがわかりません。そ
こでお寺の人に伺うと、寺の敷地奥に、厳重に柵で囲まれた、祠のようなもののところに案内し てくださいました。鍵がかかっていたのを開けてくださって、「入って下さい」と・・・。遠慮無く入り ました。祠のようなものの正面に来て、初めてそれが例の板碑だとわかりました。祠にもまた 扉があって、それも開けてくださいました。
しかし何が書いているのかわかりません・・・。お寺の方も「吉」だか「南」だかが読めたらいいこ
とになってますが・・・読めませんね(笑)、と。
資料にあったので、内容を記しておきます。
吉野先帝御□提也
キリーク 奉為
(阿弥陀) 延元二二年己卯霜月廿四日敬白
延元とは南朝年号であり、延元四年は1339年にあたります。これを奉納した人は南朝年号
を使用する、南朝派であるということが推測されます。同じ寺内に、石巻に勢力を持った葛西 七代良清公の板碑もあり、そこに「興国」と南朝年号があることから、石巻はその時は南朝派 であったようです。
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