顕信卿の兄上、花将軍とよばれた、北畠顕家卿関連史跡を巡ってきました。顕家卿の簡単な
経歴を書いておきます。
文保ニ年(1318年)・・・北畠親房の嫡男として出生。生まれつき聡明であり美しくあったらしく、
異例の昇進をしている。
元弘三年(1333年)・・・父 親房とともに義良親王を奉じて陸奥国府・多賀城へ赴く。
建武二年(1335年)・・・足利尊氏を討伐するために西上、翌年多賀城に戻る。
延元ニ年(1337年)・・・正月に福島県霊山に移る。
延元ニ年(1337年)・・・八月再び西上。
延元三年(1338年)・・・五月二十二日、和泉石津における合戦において敗死。21歳。
最近出た本には、足利尊氏が最も恐れた男だとありましたね。武家でもないものが、武力を持
つということも脅威であったでしょうね。
小倉(コグラ)館跡は、岩出山町上山里字上真山の落合というところにありました。主人にも説
明しがたい(もともと私は地図は読めない、東北の地理はサッパリポン)ところにあり、なんとも しようがないので、有備館を見学したついでに受付の方に行き方を聞きました。
一迫町との境にあり、受付の方にも「なんでそんなところに用が!?」という顔をされてしまうほ
どの、奥深い場所でした・・・探し当てるまでの夫婦喧嘩(というより一方的に私がヤリコメラレ) の経緯は置いといて・・・。とにかく舗装された道路ではない、対面通行不可能ということだけを お伝えします・・・。
『仙台領内古城・館』(紫桃正隆著)には、顕家卿が築城し、一時住んだという伝承がある、と
書いてました。しかしなんちゅう奥深いところに・・・。近くの川は「吉野川」というのだそうです。 あ、なんかあり得るかも・・・と思わせる川の名前です。しかしどうしてそういう伝承が、ということ までは書いてありませんでした。
館跡は、とある農家の裏山にあり、おうちの方に案内していただきました。たまに中世山城研
究家の方がいらっしゃるのだそうです。主人に行ってきてもらったのですが、草を繁み、登るこ とは出来ない感じだったそうです。
『仙台領内古城・館』によると、東西120メートル、南北70メートルほどの削平地があり、東西
には物見を兼ねて一段と高くなっているとのことです。北面には東西方向に深い空堀が掘ら れ、西側には土塁跡が確認できるとのこと。この城郭は東北面に構えていたらしく、南面には 大手門跡があったようです。
それにしても、場所をちゃんと説明することが出来ないようなとこに城作らないで欲しい・・・。
今回の史跡、地図ではここになります・・・
『史料 仙台領内古城・館』(紫桃正隆著 宝文堂出版)によると、このような城だったそうです
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