ここでは北畠顕信卿の足跡をたどって巡った史跡について紹介していきます。
資料は『史料解読 奥羽南北朝史』(大友幸男 三一書房 1996)に拠ります。
顕信卿は、花将軍と言われた北畠顕家卿の弟で、兄が阿倍野にて戦死した後、兄に代わり奥
州鎮守府将軍として、奥州の各氏への南朝支持を促し、北朝側と戦い、東北を転戦した人で す。顕信卿が奥州に入ったのは、興国元年(1340)春だと考えられているそうです。この時、 大友氏は陸路ではなく海路で、石巻に上陸したのではないか、そして石巻城を一時期拠点とし ていたのではないか、と考察なさっています(前掲本203頁参照)。
臨む風景です。
顕信卿はその時は南朝方であった結城親朝宛てに書状をしたためています。その中に「吉野
殿」の無事を知らせる内容があります。この「吉野殿」とは、兄顕家卿の遺児と伝わる「顕成」で あったと考えられており、石巻に伴っていたようです(前掲本214ページ参照)。
この時には南朝派であった葛西氏、結城氏(ちょっと日和見的態度)などと連絡をとりつつ、常
に京都や吉野の状況も把握しながら、顕信卿は奥州を転戦することになります。
石巻城の説明板です
説明板内容です
文治五年(一一八九)の奥州合戦の報償として、源頼朝の家人葛西清重は、牡鹿郡のほか数箇所の所領を給付されました。以後天正一八年(一五九〇)豊臣秀吉によって滅ぼされるまで 四〇〇年の間、牡鹿郡は葛西氏の重要な所領であり、なかでも石巻の日和山は、その居城が あったところという伝承が残っています。 しかし葛西氏の奥州における所領支配の実態は明らかでなく、その居城についてもはっきりし たことはわかりませんでしたが、昭和五八年(一九八三)の発掘調査によって、ここ日和山に 大規模な中世城館が確認されました(以下略)
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