北畠顕信卿関連史跡〜三迫合戦・津久裳橋城〜


宮城県金成町に行ってきました。ここは興国三(または二)年(1341,1342)秋十月にあった
という、「三迫合戦」の主な戦場となったところだそうです。顕信卿は、九月に南部、葛西、滴
石、河村氏などと共に、三迫など五カ所(三迫、津久裳橋、成田、新山林、二迫の八幡など)に
要害を築いたようです。

それに対し、探題石塔義房は十月、津久茂橋と八幡の中間にあたる、鎌糠というところに向城
をとり、武家方であった岡本氏などに出陣を要請しています。

「岡本文書」によると、岡本氏は要請に従い十月八日に下向、翌九日から十七日までは、成田
城を攻め、同十七日、八幡城を攻め、二六日に津久裳橋城を攻め落としているようです。つま
り、決戦はだいたい10/9〜10/26くらいで終わったようです。従来では大きな戦であったと
言われているそうです。

今回は津久裳橋城跡に行ってきました(そこしか場所がわからんかったんです)。
くりはら高原鉄道の「つくも」駅の北にあります。

津久裳橋城全景です            津久裳橋城から橋の方向を
     

城跡から駅方面まではだだっぴろい田んぼが広がっておりました。私たちは駅側から来たので
はないので、橋がどこにあるのか分からなかったのですが・・・(主人にお任せなので・・ハハ)


金成町のパンフです          津久裳城途中からの眺めです
       

パンフには、「南北朝時代まで血戦の地だった津久裳橋(つくもばし)を渡ると、城跡の入り口
です」とありました。なので結構近いんじゃないか、と思ってるんですが・・・また次回です。
パンフに「つくも橋があった付近」の写真が載ってます。舗装されてないようですね・・・。いった
いどこにあるんやら・・・。


頂上部分です              頂上から橋方面の景色です
     

頂上部分の供養塔と石碑は、杉自太郎行信のものだと思われます


説明板です


内容を記します。

俳聖芭蕉と奥の細道の旅した弟子の曽良の日記に
「十四日(元禄二年五月ー一六八九)天気吉。一関ヲ立。岩ヶ崎。
真坂。岩ヶ崎ヨリ金成ニ行ク中程ニつくも橋アリ。岩ヶ崎
ヨリ壱里半程。金成ヨリ八半道程。岩ヶ崎ヨリ行ケバ道ヨリ
右ノ方也」と記しているが、芭蕉や曽良の心に映じていた
「つくも橋」とはどんなところであったろう。
吾妻鏡に文治五年(一一八九)八月二十一日、二品(源頼朝)
松山道ヲ経、津久毛橋ニ至リ給フ。梶原平二景高一首和歌ヲ
詠ムノ由之ヲ申ス。
  陸奥ノ勢ハ御方ニ津久毛橋
   渡シテ懸ン泰衡ガ頸
源頼朝は海、陸、山の三道から二十万の大軍をもって平泉の
泰衡を攻め進んだという。そのころ三迫川沿岸一帯は津浦藻
が生い茂る低湿地帯であった。この藻を刈り敷きつめて全軍を
渡したという時の歌である。
このさき源義経の身代わりになって自殺し、義経をエゾ地に落
してやったという伝説をうんだ「判官びいき義経北行説」の立
役者杉自太郎行信の供養費もこの丘の西に苔むして建っている。
 また鬼柳文書によると、南北朝の興国三年(一三四一)九月、北畠顕信
が南朝回天の最後の拠点を津久裳橋城に築き、足利方の将、石塔
義房は釜糠城に陣を張り大合戦を展じている。
 以上二つの文献からもつくも橋城附近は奥州の国道であり
血戦の地でもあった。なお赤児部落にある壇の原や乱れ橋も
津久裳橋を中心とした古戦場跡といわれる。
(昭和六十一年三月 金成町教育委員会)


二迫の八幡といい、赤児の壇の原、乱れ橋って・・・家に帰って画像を見直してから「なんじゃこ
れはー!」と叫びました・・・。聞いてねぇよ、早く言ってくれよ・・・(涙)。これもまた今度(汗)。







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