北畠顕信年表〜書状篇〜

興国元年 一三四〇 12月 糠部の南部政長に教書を送る(五辻清顕奉)。
白河の結城親朝に清顕奉状を送り、決起を促す。
興国二年 一三四一 4月 結城親朝に南部氏などの勝利を伝え決起を促す。
10月 栗原郡三迫に出撃し、奥州探題石塔義房と戦うと伝える
(「相馬文書」による)。
興国三年 一三四二 2月 結城親朝あて「清顕奉状」で近況を伝え、決起を促す。
7月 同じく親朝に近況を伝える。
興国四年 一三四三 6月 (結城親朝、北朝に転じる)
8月 南部氏あてに自筆教書を発す。
興国五年 一三四四
南部政長に使者を送り、「入道殿(北畠親房か)よりの状」
を伝達する。
興国六年 一三四五 2月 南部政長に甘美郡の足利氏の所領を勲功の賞としてあて
がう。
3月 南部一族と津軽の南朝方の武士を論功する
11月 玉造郡の多田左近将監に義軍を挙げることを勧誘する。
正平元年 一三四六
(足利直義、盛んに南部政長に勧降状を発する。)
正平二年 一三四七 8月 (楠木正行、紀伊、河内、摂津などに転戦を開始。九州で
も懐良親王、菊池一族らが動く)
正平三年 一三四八 1月 (楠木正行、四条畷で戦死。後村上天皇、賀名生に移る)
正平四年 一三四九
(観応の擾乱起こる)
正平五年 一三五〇 1月 多田将監に教書を送り、義軍を挙げることを勧誘する。
6月 政長に使者と書状を送り、上田城和議を告げる。
正平六年 一三五一 10月 大河戸四郎左衛門尉に留守氏所領を一時預ける書状を送る。
正平十年 一三五五 3月 南部信光を大炊助に推挙する(推挙状)
正平十一年 一三五六 11月 南部信光が大炊助から薩摩守に推挙する(推挙状)
正平十三年 一三五八
出羽大物忌神社に社領を寄進する寄進状を書く。
正平十五年 一三六〇 6月 南部信光、政光に津軽田舎郡、鼻和郡、外浜などの所領を安堵する教書を発す
正平十六年 一三六一 1月 曾我一族?に勧降状を出す
正平十七年 一三六二 1月 南部信光に京都の状況を知らす書状を出す

これらが顕信関連の書状すべてを出したわけではない。年号不明なものは省いたものもある。






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