近江大津宮〜その4〜


このページでは、大津宮の伝承や壬申の乱、天智天皇関連のことについてを記していきます。
参考文献は『よみがえる大津京』(大津市歴史博物館)です。

金殿井
  大津市錦織町にあり、天智天皇が大津に遷都してすぐに重い病にかかり、その際右大臣
中臣連金の夢に「都の西方の大木の根本から湧き出す清水を汲んで献上しろ」というお告げ
があったということです。金はすぐに宇佐山中に分け入ると、お告げの通りに泉があり、献上し
たところ天皇はすぐに治ったということです。今も宇佐八幡に登る参道脇に井戸が残ります。
宇佐山

清井・無垢井
  大津市南志賀一丁目と三丁目とにあり、大津京時代から使用されていた泉と言われていま
すが両方残っていません。伝承では京阪南滋賀駅の東南付近に清井が、志賀小学校西南角
付近にあったと言われています。清井は宮中で使われ、無垢井は産湯に使われたという伝承
が残っています。
清井・無垢井

近江神宮
 かるたで有名な、あと水時計で有名ですが、紀元2600年事業の一環として昭和15年に建
てられました。この場所は大津京の旧地である宇佐山山麓にあたります。私の娘のお宮参り
はここで〜す。ちなみに私はその近所の篠津神社です(だって本籍の近くだったし)。

佐久奈戸神社
  大津市大石中一丁目にあり、天智天皇八年勅願により中臣連金がその地に祓戸大神四
柱を奉祀したのが起源とされており、天下の祓処として有名で、大七瀬の祓所のひとつです。
佐久奈戸神社

長等神社
 三井寺近くにあります。天智天皇の御代に、都の鎮護を目的として建立されたのが始まりだ
と言われています。
長等神社

倭(しどり)神社・赤塚古墳
 大津市滋賀里三丁目に小さな祠があり、祭神は天智天皇皇后倭姫王と伝わっています。ま
たは、大友皇子軍の兵士が殉難将士を祠って赤塚と称し、子孫が定住して一村を営んだとい
う伝承も残っているそうです。
滋賀里三丁目

木の岡本塚古墳
 大津市木の岡町にあり、被葬者が大友皇子生母である伊賀宅子娘という伝承が残っていま
す(私も聞いたことあります)。実際の時代としてはもっと古い時代の古墳群のひとつです。
木の岡町

鞍掛神社
 大津市衣川二丁目にあります。衣川台の団地の一角にある神社で、祭神は弘文天皇です。
壬申の乱で敗れた大友皇子は山前の地で自害せず、数人の従者に守られ衣川の地にいた本
田氏の屋敷まで逃げますが、そこで力尽き、屋敷前の柳の木に愛馬の鞍をかけて自害したと
いう伝承が残っています。祠はその従者達が帰農し、代々守っているということです。
衣川台

三井寺
 創建は古く大津京時代に遡ると言われています。大友村主寺という別名があるように、大友
皇子とも関連深く、皇子の子の与多(王)が父皇子の遺言により、その邸宅があった所に御井
寺を建立したという説、大友与多麿が父皇子の追福や天武天皇のために建立したという説も
ありますが、どちらにしても大友皇子関連の寺といえます。

葬り塚
  大津市秋葉台にあり、茶臼山古墳として地元民に親しまれています(私も高校時代、あそこ
の空き地、文化祭の練習に使いました)。この古墳のひとつである前方後円墳が大友皇子を
葬った墓だという伝承があり、またはその西にある円墳の小茶臼山古墳が皇子の崩御の地で
あるとも言われています。前方後円墳の円部頂上には5基の葬り塚があり、皇子(前面中央)
と侍臣、そして子供の与多王(後列右から2番目)を葬ったものと言われています。
茶臼山古墳

石坐(いわい)神社
 大津市西の庄にあります。膳所城下の町並みが少し残る、旧街道の一角にあります。旧街
道は今は地元民の抜け道として使われているので、私ももちろん目の前を走っています。その
時は「天智さん、大友はん、前をごめんよ!」といいながら(笑)。
 祭神は天智天皇、弘文天皇、伊賀宅子娘、彦坐王命、豊玉比古命、海津見神の6柱です。
大津京時代以前からの古いお社だと言われてますが、天智天皇御世に干ばつがあり、それを
救うとのお告げがあったということで、この神社がご神体とした山に祠を建てたそうです。
石坐神社

法傳寺
 石坐神社のお隣のお寺さんです。最初は天智天皇勅願の寺として、滋賀郡に664年に建立
されたということで、後に大友皇子息与多王が出家してお寺に入り、第5世住職となったという
ことで、このお寺さんの住職さんは、大友姓を名乗ってはります。その後現在の場所に移転し
たということです。

八大竜王社
 大津市膳所地ノ内町にあります。天智天皇御世に、膳所の山手にある御霊殿山(ごりょうど
やま)が毎夜光るので、様子を見に行った村人に、竜神が人々を救いにやってきたと告げたの
で、それを奏上したところ、天智さんは祠をつくり、祀るようにと命令したということです。持統天
皇の時代に、今の昭和町(膳所高から膳所駅までの間)にあたる石神町に移転したということ
です。現在は相模川沿いに御霊殿山へ登る道筋にあります(大正時代に移転したそうです)。
池ノ内町

弘文天皇陵
 大津市御陵町にあります。大津市役所(京阪別所駅)の西側に隣接してあります。市役所に
用事あって行くと必ず寄ってました。正式には「長等山前陵(ながらやまざき)」といいます。他
にもいろいろ候補地はあったようですが、園城寺境内の一角にあった「亀丘」といわれる円墳
を選んだということです。
弘文天皇陵

将軍塚
 大津市美崎町にあります。京都の将軍塚ではありません。園山の北側、美崎集落のはずれ
に小さな土壇がありまして、それが将軍塚だと言われています。そういや私も花見(園山は花
見の隠れた名所)の帰りに寄ったことがあります。ここは瀬田の唐橋の戦いで敗れ、粟津市で
斬られた大友皇子軍の将、犬養連五十君や谷直塩手などを葬った場所だと伝わっています。
私も壬申の乱の時の大津側の将軍のお墓だと聞いて育ちました。
美崎町

功臣塚
 大津市園山にあります。ここは東レの北門を入ったらすぐに小さな祠がありまして、昔は結構
誰でも入れたんですが、今は警備が厳しいからどうなんでしょう?園山に花見に行くと、壬申の
乱ツアーみたいになってしまい、父に連れられ巡った覚えがあります。この塚は大津側の西村
村史や物部古案などの功臣を葬ったと言われています。
東レ北門前

園山
 東レの西側山手に小高い丘陵がありまして、それが園山という場所です。桜がとても綺麗な
ので、地元民は観に行きます。ここは古墳時代後期の横穴式石室を有する円墳が10基確認
されてるそうです。瀬田の唐橋の戦いで、大津側の先鋒として勇敢に戦い戦死した、僧の智尊
(ちそん)を葬った山で、「僧の山」から「園山」に転じたという伝承が残っています。
園山

御霊神社
 大津市北大路にあります。国分方面に行く道にあり、私などは抜け道として使うのですが、夜
通るとまぁこわいこと!絶対何かある〜!という感じです。かつては大社であったようです。祭
り神は弘文天皇で、死去した場所に近いということから祀りはじめたそうです。夜はマジ怖いで
す。御霊神社

御霊神社
 大津市鳥居川にあります。前者のは石山駅近く、これは京阪唐橋駅方面の唐橋西詰にあり
ます。祭神は弘文天皇です。この社の地は、大友皇子が命を絶ったという「隠レ山」で、大友皇
子息の与多王が父の霊を祀るために、御霊宮を創建したのが始まりだということです。
御霊神社

三十八社五明神社
 石山寺境内にあります。ちなみに私はすっとばしてます(汗)。瀬田の唐橋の戦いに敗れた大
友皇子は、石山寺境内の月見亭(階段を登り切ったところにあります)横にある、芭蕉庵(茶が
飲めます)の南付近で崩御したという伝承が残り、のちに皇子の一族38柱と重臣5柱の霊を
祀るために建てられたということです。
石山寺

赤川
 大津市南郷にあり、京阪バス停留所「赤川」あたりを流れる瀬田川のことです。いろいろ伝承
があるのですが、壬申の乱の瀬田の戦いによって、川が一面血で染まり、赤色となったことか
ら「赤川」と言われるようになったという説、平家と源氏の合戦があり、それで赤川といわれると
いう説などがあります。そのそばの千丈川はゲンジボタルの生息地です。
赤川

あとは浅井郡にも「亀塚古墳」という、壬申の乱関連の史跡があります。
よく見直してみたら、結構私、知らん間に通っているとこばかりでした。私は広範囲では「石山」
という区域の育ちなんですが、ここらへんの人はまだ大友皇子側の人が多いんです。大津では
天武さんはウケ悪い〜(笑)。

与多王(または大友村主与多麻呂)という名、あまりこの付近以外の方は親しみないかもしれ
ませんが・・・葛野王が息子であったことは有名ですけれどね・・・葛野王は母親が天武さんの
娘さん(十市郎女:母ー額田王)だから、まぁ飛鳥に戻ってもそれなりに生きていけますが、与
多王はどっぷり大友村主につかっているし(敗者の一族だし)、飛鳥に戻っても居場所はなか
ったことでしょう(あ、葛野王も同じか)。ちなみに歌人で有名な大伴黒主は大友皇子六世の孫
といわれ、与多王孫だと言われています。





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