近江大津京〜その1〜


京阪石山坂本線の駅に皇子山という駅があります。そのあたりに大津宮跡遺跡が2カ所ほど
公開されています。(ヤフーの地図ではこのあたりになります)

大津京周辺

車を停めるところが無い(無理矢理1台分あるかないか、という感じ)のと、周囲は住宅地であ
り、地元民が使う抜け道のような道路なので、長々と車を停め置くことはできません。

大津宮はそういう住宅地のど真ん中、ということもあって、なかなか調査が進まないのが現状
で、明日香の宮宮や藤原宮や平城京は知ってるんだけどね〜、大津はちょっと・・・という方も
多いようです。大津以前の難波長柄宮などもあまり知られてませんしね・・・。

私も都市と文学との関わりを追う、都市文学研究者ではないのであまり解ってないのですが、
まずは、当時の大津という地についての説明からはじめます。

飛鳥時代の滋賀県では、和邇(ワニ)氏と息長(オキナガ)氏が有名だと思います。和邇氏は
滋賀郡、息長氏は坂田郡を押さえていたそうです。この滋賀郡というのが、現在でいう志賀町
から瀬田川一帯であり、和邇氏は水運を押さえ、栄えていたようです。

5世紀後半になると、漢人達が滋賀郡に配置されるようになります。そうして和邇氏の統率の
下で、漢人による渡来の高度な技術がもたらされたということです。その漢人達の滋賀郡にお
ける居住区域ですが、古代滋賀郡は真野・大友・錦部(にしごり)・古市、の4郷に分かれてお
り、結論からいうと和邇系氏族が真野に、漢人系氏族は南部3郷に住んだということです。

真野は堅田あたり、大友は坂本・穴太・滋賀里・南滋賀、錦部は錦織・三井寺、古市は石山あ
たりだっと言われております。大津宮は錦織にありました。私の実家は古市郷にあるということ
になります。(またまた地図で、地名が確認できますので・・・)

錦織、穴太などの地名

大津京の跡地の地名説明に「錦織」がありました。



内容を記します
古代よりある地名で、古くはこのあたり一帯が錦部郷と呼ばれていました。錦部郷の地名は、
機織関係の職務に携わっていた朝鮮半島からの渡来系である錦部氏が、奈良時代以前より、
当地一帯を居住地としていたことに由来します。


大友郷には三津首(伝教大師ゆかりの氏族です)、穴太には穴太村主(スグリ)、滋賀里から
南滋賀には大友村主の居住が確かめられます。これら三氏は皆後漢最後の皇帝の孫である
と自称しています。また志賀漢人という新たな渡来系も住むようになりますが、これも周の末裔
だと自称しています。錦部郷には錦織村主に加え、三井寺園城寺の別名、大友村主寺という
ように大友村主が居住しています。

和邇系氏族と漢人系とは居住区域が分かれていたために、それらが融合することも少なかっ
たようですが、和邇系の地の真野には小野妹子がおります。彼が連れて行った学生の中には
大友郷を住まいとする、志賀漢人恵隠という人がおりました。住まいや婚姻などはなかなか融
合してないようですが、互いに往き来はしていたと思われます。

大友郷という名前で浮かぶのは、「大友皇子」。ご存知の通り天智天皇皇子ですが、彼はこの
名前の通り、おそらく大友村主家が養育氏族であり、または大友の地で育てられたと思われま
す。天智天皇がこの地に遷都したことも、大友皇子と大いに関連あると言われています。







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近江大津京〜その2〜
近江大津京〜その2〜