JR石山駅裏手にある、今井四郎兼平の墓に行ってきました。前ページまでの、義仲寺とはや
や離れてまして、とうていここから義仲公が討たれた時の敵方の声を聞くことは出来ません が・・・。義仲公も義仲寺近辺で無くなったとはいえませんし、なんといっても、当時の粟津の松 原は、それは範囲も広かったようです。今は琵琶湖よりやや内側に入った、曲がりくねった道 に、その名残の松が数本、数メートルおきに並んでいます。当時の面影は全くありません。
今井四郎兼平は、木曽義仲公の乳母子で、年は33歳であったということです。巴御前は彼の
妹であったということで、兄妹揃って義仲公に仕えていたようです。義仲公は、義経軍に追わ れ、都を後にするわけですが、兼平を瀬田(当時は勢多)に配置していて、彼の安否が気にな って、打出の浜といわれる、現在では大津市松本というところ(琵琶湖文化館あたりがそうでし て、能曲「自然居士」の舞台にもなります)まで戻ってきて、再会します。その時には300騎ほ ど集められたのですが、何度も軍勢を破っていくに従い、とうとう主従5騎だけとなってしまいま す。その中にも巴御前はいたのですが、義仲公が「木曽殿の最期の戦に女がいたと言われた くない」と何度も仰るので、武蔵国の武将、御田八郎師重の首を、自分の馬の鐙で引きちぎっ て、ポイっと捨てて、東国へ逃げていったということです(後日談は義仲寺の巴塚を)。
「粟津原合戦」とありますが、引用文献とした、小学館・全集が底本としている覚一本(東大国
語研究所蔵 高野辰之旧蔵)では、「粟津のいくさはなかりけれ」と、戦というほどのものではな い、としています。が、他の諸本ではこの一文が無いものもあり、覚一本のひとつの系統では、 これを戦とはしない、という見方で話を進めているようです。合戦というのが、陣を張り、作戦を 練ってというものだというなら、これは合戦とはいえませんが、でも、「粟津のいくさはなかりけ れ」ってのはちょっとひどいんでないかい!と思ってしまいます。
(本文引用は「木曽最期」『新編日本古典文学全集 平家物語』(小学館 市古貞次氏校注・
訳)182頁)
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