兼平は、気弱になって「日来はなにともおぼえぬ鎧が今日は重うなッたるぞや」(をを!名ゼリ
フですな〜)という義仲公を励まし、「御身もいまだつかれさせ給はず(中略)。矢七つ八つ候へ ば、しばらくふせぎ矢仕らん」となんとも頼もしいセリフを連発しはります。一所に死のうと言う義 仲公を戒め、武士は最期が肝心だから、あの粟津の松原でご自害なされ、御身はつかれはて ておられよう、と静かに自害できるようにと心配りしはります(漢ですなぁ!)。兼平はただ1騎 で50騎ほどの軍勢の中に入り、「日来は音にも聞きつらん、今は目にも見給へ。木曽殿の御 めのと子、今井の四郎兼平、生年三三にまかりなる。さる者ありとは、鎌倉殿までもしろしめさ れたるらんぞ。兼平うッて見参にいれよ」と大音声あげて名乗り、まず8騎射て、あとは刀を振 り回すのですが、その勢いの飲まれ、まともに相手が出来るものがいなかったということです。
義仲公は、自害の場所を求め、粟津松原に入りますが、深い田んぼに馬の足を取られている
うちに、三浦一族の石田次郎為久によって討ち取られてしまいます(てんめ〜!)。討ち取った り〜!の声を聞いた兼平は、「今は誰をかばはむとていくさをもすべき」と言って、太刀先を口 に含み、馬から逆さまに飛び落ち、貫かれるように自害したということです。
この墓は、今井四郎兼平の子孫の方が江戸時代に建てたものです。
墓所隣には「兼平庵」という建物がありました。
『平家物語』といえば、謡曲によくその題材として求められているのですが、やはり「兼平」とい
う謡曲がありまして、関連地としてはこの他に、矢橋(近江八景の「矢橋の帰帆」で有名なとこ ろです)とがあります。
謡曲「兼平」と兼平の墓の説明板の内容です
謡曲「兼平」は、主君木曽義仲の最期を、勇将兼平の語りによって描き、忠臣兼平の壮絶な討
死の様を見せる修羅物である。
木曽の僧が、義仲の戦死の跡を弔うことを思い立ち、矢橋の浦で老船頭の漕ぐ柴舟に乗船す
る。舟が粟津に着くと彼の老人は消え失せてしまった。僧が回向し仮睡すると武将が軍陣の姿 で現れ、昨日の渡守は今井兼平の亡身であると言い、主君義仲の最期を詳しく語って追福を 頼む。更に「自害の手本にせよ」と広言しつつ討死した。
粟津原で義仲と共に奮戦し、悲壮な最期を飾った此の地に今井兼平の墓はある。今井家末孫
によって立派に建立された。(謡曲史跡保存会)
墓外の説明板の内容です
今井兼平は、源(木曽)義仲の腹心の武将。寿永三年(一一八四)正月、源義経・範頼の軍と
近江の粟津で戦い、討死した義仲のあとを追って自害した。その最期は口に刀をふくんで馬か ら飛び降りるという壮絶なものであった。
寛文元年(一六六一)、膳所藩主本多俊次は、今井兼平の戦死の地を求め、中庄の墨黒谷
(篠津川の上流)に墓碑を建立して、兼平の義勇をたたえた。墨黒谷には、兼平の塚があった といわれその塚のところに建碑したのであった。
その後寛文六年、次代藩主康将のとき、参拝の便を考えて、東海道の粟津の松並木に近い
現在地に兼平の墓を移設したという。碑は明治四十四年、その兼平の墓を再改修したときの ものである。碑文によれば、滋賀県知事川島純幹、膳所町長馬杉庄平、兼平の末裔で信州諏 訪の人今井千尋らが発起して、旧跡の規模を拡張し、その参道を改修したものという。
(本文引用は「木曽最期」『新編日本古典文学全集 平家物語』(小学館 市古貞次氏校注・
訳)178頁〜182頁))
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