帰省の折に、車で約20分ほどのところにある、義仲寺に行って来ました。ここは昔はほぼ琵
琶湖に面していたのですが、約30年以上前の湖岸道路関連工事により、やや内に入りまし た。当時は「粟津ヶ原」と呼ばれた一帯です。地名「粟津」の範囲は広く、ここはJRの駅では膳 所というところになるのですが、そこから次の駅の石山というところまで一帯を「粟津」と言うよう です。現に今も「粟津中学校」という学校もあります。
大津市民にはなじみの深い義仲さんです。本文を習わない小学校のころから、このあたりで朝
日将軍木曽義仲という人と、義兄弟の今井四郎兼平という人が、命を落としたんや、と学校で も家でも話を聞かされて育ってきました。
「義仲寺」、地元民は「ぎちゅうじ」と呼んでいます。その名の通り、朝日将軍木曽義仲公のお
墓があるところで、そして木曽殿を慕ったという芭蕉翁の眠るところとして有名です。昔は一般 公開はしていなかったのですが、15年ほど前からするようになりました。
義仲寺山門です 左の説明板です
境内には沢山の句碑(19ほどあるようです)と、義仲公関係の碑とが所狭しと並んでいます。
義仲公の墓の左隣に巴御前の塚があり、公の右隣には芭蕉翁の墓が、という配置になってお り、やや離れたところに義仲公側室の山吹御前の塚もありました。
なぜここに巴塚や巴地蔵堂があるのか、ということですが、寺のパンフには次のようなことが載
っています。木曽殿が討たれてから後、見目麗しい尼僧が、お墓のほとりに庵を結び、日々供 養をしていたそうで、里の者が訝しがって素性を聞くと「我は名も無き女性」と答えるだけであっ たらしいです。しかし実はこの尼僧こそ、巴御前であったということです。巴御前は粟津合戦で 落ち延びた後、とある武将の妻となっていましたが、その人も亡くなった後に、この粟津に再び 戻って、義仲公を弔ったということだそうです。巴御前亡き後、その庵は「無名庵」と呼ばれ、ま たは「巴寺」とも呼ばれたそうです。門となりの巴地蔵堂は、巴御前を追福するものだということ です。
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