会津・斉藤一氏関連地〜如来堂〜


如来堂にも行きました(いや、正確には行けました、です)。しかしまぁ、なんでこないなとこに籠
もる?ていうか、道全くわからんかったし!ナビいらずの主人のおかげでなんとかなったけど、
ほんまにこれは小倉舘以来のオオモノ!と一瞬車の中が殺気だったっての!

しかしよくほんとにここから脱出できましたね・・・周りぐるりと300名くらいに囲まれて、一斉に
撃たれて・・・絶対宝くじを(しつこいいうねん)。母成峠の戦いで、「オレにゃぁ当たらねぇ」と悟
ったとか(爆)?


   

   

説明板の内容を記します。

如来堂

慶応四年(一八六八)九月四日、山口次郎こと斉藤一ら新選組隊士が守備したここ如来堂
が、新(政府軍?)によって襲われ、隊士が全滅したとされる場所である。
近藤勇亡き後、会津に入った土方歳三率いる新選組は母成峠防衛の任となるが、西軍の攻
撃の前に敗退した。庄内へ援軍を求めて会津を離れようとする土方に対し、山口は会津藩主・
松平容保への恩義から「今、落城せんとするのを見て、志を捨て去る、誠義にあらず」と、会津
に残留して徹底抗戦を主張した。
会津を去った土方とは対照的に、山口は二十名(十数名とも言われている)ばかりの隊士とと
もにこの地に宿陣していたが、西軍の襲撃を受けて全滅したとされている。しかし、数名の隊
士が乱戦の中を脱出し、生存していた。
ここ会津で隊長として新選組を率いた山口においては会津藩が降伏開城した後、藩士とともに
斗南藩に移り、苦渋をともにしたのち、大正の世まで生き抜いたのであった。

   


説明板より古い説明碑です。内容を記します。

戊辰の役会津に救援の新選組副隊長土方歳三ら百数十名は白河口母成口等で防戦につと
め九月四日にはここ如来堂の激戦で隊長役山口次郎らが大いに戦い十三名は華と散った。




トップへ
トップへ
戻る
戻る