斉藤一氏こと、山口次郎氏のお墓のある阿弥陀寺に行きました。七日町というとこにあり、す
ぐそばには226事件で唯一民間人ながらも捕まり処刑?された(はず)、渋川氏の実家であり 今は料理旅館の「渋川問屋」もあります(明治時代、会津一の海産物問屋であったそうです)。
お寺もまたまぁ車停めるとこが無い!「さっさと行ってこい!」という情緒のかけらもない言葉に
見送られ、着物だったのに走りまくって撮ってきました・・・なのでズれてる・・・。
寺のほぼ全貌写真です。左の建物がお城にあったといわれる「御三階」です。右写真は藤田
家墓前の説明板です。
説明板の内容を記します。
新選組隊士 斉藤一(藤田五郎)の墓
斉藤一は、1844年(弘化元年)、御家人の父、山口祐介・母マスとの間に生まれた。初名を
山口一、のち斉藤一に改めた。
1863年(文久三年)壬生浪士組のちの新選組に参加し、副長助勤、三番隊隊長として活躍、
沖田総司、永倉新八と並ぶ剣客で、剣術師範も勤めた。池田や事件にも参戦。その後、伊東 甲子太郎らが、御陵衛士を拝命し、新選組から分離した時伊東に同調して離脱、しかし局長 の近藤勇の密命であるといわれ、油小路で伊東らが暗殺された後、新選組に復帰し、山口二 郎と改名。
鳥羽伏見の戦い等を経て、会津若松城下に入り負傷した土方歳三に代わって新選組隊長とな
り、会津戊辰戦争を戦った。しかし西軍が城下に迫った時、「会津侯(松平容保)あっての新選 組、会津を見捨てることは出来ない」と隊士十余名と残り仙台へ向かった土方と別れた。
会津藩降伏後は一瀬伝八と名乗り越後高田に幽閉。明治三年斗南に移る際に藤田五郎と改
名。その後は上京し警視庁に入り、容保の媒酌により会津藩士高木小十郎の娘時尾と結婚。 警視庁においては西南戦争に出陣するなど活躍。その後東京教育博物館等に奉職し、1915 年(大正4年)七二歳で逝去。後半生を会津人として生きた本人の希望によりここ阿弥陀寺に 眠っている。
本来はお城にあったとされる御三階です(藩主の密議の間であったとか)。
説明板の内容を記します。
阿弥陀寺
阿弥陀寺は浄土宗に属し、慶長八年(一六〇三年)良然和尚の開山である。本堂は旧鶴ヶ城
の御三階で藩公の密議又は用見をとされた所である。玄関は同大書院玄関を移したものであ る。境内にかつて青銅一丈三尺の大仏があったが、太平洋戦争中供出し台石のみ残ってい る。正面の拝霊殿には明治戊辰戦役会津将殉難者の霊及び家老萱野権兵衛の木像を安置 している。権兵衛(千五百石)は戊辰の役諸処に転戦したが、奥羽諸藩処分の際会津藩抗戦 諒の責任を自ら進んで負う処あって斬〜〜(読めません)の宣告を受け明治二年五月一八日 江戸保科邸にて割腹自刃した。年四十二、後此堂に西南役戦死者佐川官兵衛外六十八名を 合祀した。官兵衛は戊辰役鬼佐川と呼ばれた勇将で、明治十年の西南役山地元治将軍の麾 下におって戦死し、その子直諒は日露の役遼陽に戦死した。鐘楼は殉難者慰霊の為明治三 十一年九月鋳造建立されたもので、老若男女挙って銅銭小判銅○銀簪等を供出し協力して成 ったもので、戊辰悲史を語るべき記念物である。
明治戊辰戦後殉難者墓と書いてます
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