会津・土方歳三関連地〜母成峠古戦場跡地周辺〜


4月中旬、会津に着いて初めて行ったところは母成峠でした・・・。猪苗代あたりから十六橋と
秋元湖周辺、そして母成峠に行ってきました。当日は寒くて寒くて(5月初めまでストーブ必要
だったくらい、寒かった)、母成峠に着いた時は、吹雪いてました(汗)。

母成峠古戦場跡の駐車場です(まだ雪が・・・その上ちょうど吹雪だし〜!)
  


ここでは大鳥氏・土方氏率いる会津の新選組など東軍800名ほどと、薩長軍など3000名ほ
どが戦った場所で、土方氏の会津における最後の戦いの場ということになるようです。会津とし
ては白河からと郡山から責めてくるのを予想して、そっちの守りに重点を置き、この二本松か
ら責めてくる経路となる母成峠越えは、嶮しい道ということもあって、守りを伝習隊や桑名藩、
新選組に任せていたそうです。

ちょうど、この戦いについての説明をしている説明板が、近くの東軍戦士者墓にありました。

 

板の内容を記します。

母成峠の戦いは、慶応四年(一八六八)八月二十一日、ここ母成峠周辺を戦場として戦われ
た。この日、本宮、玉ノ井村に結集を終った西軍は、兵を三分し、谷干城(土佐)の率いる凡そ
千名は勝岩(猿岩)口へ、板垣退助、伊地知正治率いる凡千三百名は石筵本道口へ、川村純
義(薩摩)率いる凡三百名は山葵沢より滝沢口へ、一斉に進発した。これを迎え撃つ東軍は、
総数僅かに八百名、勝岩口には、勝岩上に、大鳥圭介率いる伝習第二大隊及び会・二本松
兵併せて三百名が守備に当たり、勝岩下には、新選組凡七十名を配置し、土方歳三、山口次
郎がこれを指揮した。
石筵本道口の第一台場(萩岡)第二台場(中軍山)第三台場(母成峠)には、会津藩主将田中
源之進、二本松家老丹羽丹波、伝習第一大隊長秋月登之助らの指揮する、会・仙・二本松及
び伝習第一大隊併せて四百数十名が守備に当たった。
戦いは、萩岡の号砲を合図に、勝岩口と本道口に分かれ、午前九時から凡そ七時間に及ぶ
激戦を展開したが、圧倒的な兵数と火力の差は如何ともすることができず、東軍は、北方高森
方面、西方猪苗代方面に敗退した。このため西軍は、二十二日十六橋を突破し、二十三日戸
ノ原口を経て、怒濤のように会津鶴ヶ城に殺到した。東軍戦死者八十八名、西軍戦死者二十
五名。


   

会津の新選組は約70名ほど居たらしいのですが、その中でただ1人、はぐれてもうた人が・・・
そう、斉藤一(会津じゃ違う名前だな)サン・・・。薩長土軍の鉄砲乱れ討ちの猛攻の中、宝くじ
買いなはれ、と言いたいくらいに運良く逃げたのは良いのですが、はぐれてしまったようで
す・・・しかしまぁ、それが運の強さの始まりであったわけで・・・ほんとに宝くじをススめたい、こ
の人には(笑)。
 
  


  

  
敗れた東軍、土方氏は会津の城に向かい、滝沢本陣にも居て、そのあたりで斉藤さんとアバヨ
する、とも言われてますが、一説には(『仙台戊辰史』だったかな)、大鳥氏と土方氏は秋元原
(今は噴火で湖になりました)まで撤退し、そこから北上して仙台だか米沢だかに着いた、とい
うことでした。
  

 

秋元湖の写真です。いやもう寒いったら・・・吹雪いてるんだってば。4月も半ば過ぎたのに。

古戦場跡地近くに、東軍の戦士の墓(といっても土まんじゅう・・・怖〜!)がありました。私ぁ寒
気ビンビンで(吹雪いて寒いのと、こりゃ違う寒気だ、ってのが入り交じって冷や汗出まくりでし
たんで・・・)、どうにもこうにも動けなかったので、主人に撮ってきてもらいました(笑)。





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母成峠古戦場周辺〜東軍戦士墓〜
母成峠古戦場周辺〜東軍戦士墓〜