恒性皇子関連地〜高岡2〜


ここが皇子の陵墓です。この地区では古くから「太子墓」と呼ばれていたそうですが、ずっと正
確な場所は不明であったそうですが、宮内庁の実地検査を経て、明治四十五年一月に確定し
ました。

   

  

恒性皇子御墓由来の内容を記します

恒性皇子は、第九十六代後醍醐天皇の皇子で、元弘の変(一三三一〜三三)の折、父天皇と
共に鎌倉幕府(北条氏)の討伐を企てられたが失敗し、天皇は隠岐の島に配流、恒性皇子は
幕軍に捕らえられ元弘二年(一三三二)三月、越中の守護名越時有のもとに幽閉された。元弘
三年(一三三三)二月天皇が隠岐の島を脱出されてから天皇方の軍が各地に興り、幕府の形
勢は日々傾いたが、皇子は鎌倉幕府滅亡の直前に当る同年六月三十日(旧暦五月十日)、
幽所で時有によって殺害された。
この東二塚地区には、古来、皇子にまつわる数々伝えられており、明治四十五年(一九一二)
一月二十九日宮内省ならびに地元官民有力者の尽力によって、射水郡二塚村二塚の俗称、
太子墓(現在地)を宮内省告示第一号により皇子の墓と定められた。

皇子たち三人の首をさらした場所を「三カ首」というそうですが、今は正確な場所は不明だそう
で、太刀城跡地に並んで碑がありました。

  


皇子達を火葬した場所は「皇子三昧」というのですが、それがどこにあるのか、地図は入手し
たんですが、このあたり、宅地造成や土地改良などが激しく、地図と地形が異なっていて、結
局わかりませんでした。

ここには「鐘掘」という碑もありました。これは名越時有が皇子を預かり二塚城に居た時に、二
個の梵鐘を作らせたそうで、一つは城に、一つは寺に寄進したということです。

                         浄誓寺の鐘です(これかな?)
   


高岡には私の実家に帰る際、北陸道を使うので、その時に寄ることが可能だということが判明
いたしました。なので、またいつか、帰省の際に、皇子三昧はなんとしても探さねば!と思って
います。

今回の旅行では、二塚公民館の方、高岡市役所観光課の方、浄誓寺のご住職など、多くの方
からお力添えをいただきました。ありがとうございました。





トップへ
トップへ
戻る
戻る

史跡巡り頁トップへ