乙巳の変関係〜入鹿神社など〜

いわずとしれた、蘇我大郎林臣鞍作、すなわち入鹿さまのことです。これがフルネームというこ
とです。もちろん「入鹿」とも、または「林臣鞍作」ともいわれたようです。林臣は蘇我一族であ
り、百済の木氏の一流でもあったようです。明日香に近い、今井町というところ近くに、蘇我氏
または入鹿さま関連の神社があります。

『日本書紀』における彼に関する叙述で、初めて出てくるのは皇極記で、次のように記されてい
ます。

「元年の春正月の丁巳の朔辛未に、皇后、即天皇位す。蘇我臣蝦夷を以て大臣とすること、故
の如し。大臣の児入鹿、更の名は鞍作。自ら國の政を執りて、威父より勝れり(以下略)」
   (岩波書店 日本古典文学大系『日本書紀 下』皇極元年正月条 236頁)

書紀の記述を見ると、どうも彼が悪人のように解釈されてしまうのですが、蘇我ヒイキの私とし
ては、彼はまさに私のプリンス(爆)!幼い頃から憧れ続けた人のひとりです。なぜ彼が好きな
のか、ということですが、敵である(笑)藤原氏の書物とされる『藤氏家伝』に、旻の学堂に集っ
ていた頃、旻から「吾が堂に入る者に宗我大郎に如くものなし」と言われたほどの、秀才であっ
たのです。旻は当時、当代一の知識をもつ人であり、そこの学堂には、カマコなども通っており
ました。

入鹿様は明日香育ちなのか、というと、そういうわけでもなさそうです。林臣と言われているとい
うことは、おそらく林臣が養育氏族または出身氏族であったと思われます。今回めぐった今井
町のやや北に、「入鹿神社」というのがあります。現地ではその一帯が入鹿さまの邸宅跡であ
ったという伝承があります。


入鹿神社です              正面の本殿です
     


祭られているお社は、本殿の裏手にあり、柵があって入れず、仕方ないので、外から撮りまし
た。


入鹿神社本殿についての説明板です  道の脇にあった道標です
       


内容を記します

当社は廃普賢寺の東南部の一段高い所に西に向かって建ち、もとは同寺の鎮守社であったと
伝えられる。祭神は素戔鳴尊と入鹿大臣の両柱を合祀している。
本殿は基壇上に建ち一間社春日造で身舎は丸柱柱上に三斗を組み、背面を除く頭貫桁間に
中世風の面影を残す蟇股を置き、屋根は檜皮葺で棟は箱棟に千木かつお木を取り付けた江
戸初期位の建物である。
尚、近年老朽化が進み昭和六十一年度に解体修理が行われた。
  昭和六十二年六月 橿原市教育委員会


スサノヲさんと合祀されているとは、もしやどっちも暴れん坊だと思われているとか(汗)。

   






トップへ
トップへ
戻る
戻る
乙巳の変関係〜宗我神社と橘寺と三井寺〜〜
乙巳の変関係〜宗我神社と橘寺と三井寺〜〜