北畠氏関連史跡〜浪岡・三〜
無料パンフの全体図を拡大しました。散策順路は案内所から左回りで、猿楽館〜内館〜西館
〜北館〜東館〜案内所の順に巡りました。
猿楽館のあたりは工事中なのか、プレハブは建ってるわ、用材は置きっぱなしだわ、ここは史
跡?それとも工事現場?という感じでした。
猿楽館のつもりで撮ったはずなんですが・・・
内館(うちだて)です 北畠古城之碑です
碑の文章を写します
北畠氏城○碑
按中北畠親房子顯家為陸奥守奉義良親王出鎮陸奥出羽親房
輔之後還京師顯家死弟顯信為陸奥介再奉親王徃親房又輔之
親房西走顯信亦死而顯信子守親任大納言為陸奥國司其子親
能子孫在陸奥者稱波岡氏世襲國司號考館越北畠氏及三春波
岡氏家譜諸書顯家孫顯元居船越時人稱船越御所後移波岡因
又稱波岡御所至天正中有三郎兵衛尉顯村者為津軽氏所襲而
亡實顯元八世孫也史云守親子孫稱波岡氏者誤波岡氏既滅子
孫竄跡民間變名姓以自晦令其存者尚有三十餘戸云嗚呼波岡
氏守弾丸之地受命於偏安之朝累世而不少衰推守親諸人之心
盖未嘗一日忘恢復之事養兵撫民欲伺寡而動尚顯能之於伊勢
而地僻勢孤不可複為至南北合一之後則併無可複為之名無論
於其志之不遂乃如其事蹟亦未大顯不重可悲哉明治巳卯之冬
予奉
勅東役過波岡郷人導予上城○●在平野中岡阜隠赴下臨波
岡川其上皆闢為耕田廢○殘礎不可復識其南中野村有北畠
遺墳予又過之頽石○●文字剥蝕無能詳為蒼然者之先是平
野清助下澤保躬前田高直及其裔孫北畠立庵等有意於表其遺
蹟而未果乃請予記其事将建碑於城○以亦不朽予嘉其擧乃悉
而叙之如此夫南北交争際忠義之士不乏其人而親房以交臣
任武事入乘謀議出事戦闘間関百敗不挫其志其子顯家戦死于
摂津顯信于筑前顯能掾伊勢數困北朝如其族人顯持顯國有吝
以死勤王加以顯元諸人之保守一方延反數世北畠氏之忠義鳴
呼盛无
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