乙巳の変関連史跡〜首塚・甘橿丘・飛鳥寺〜


入鹿さまのご遺体は、蘇我本宗家に戻されました。父である豊浦大臣蘇我毛人(蝦夷)様は邸
宅を固め、蘇我一族を招集し、軍隊を張ろうとしたようです。が、頼みとしていた高向臣国押
が、入鹿さまのために自分の命をなくすのはイヤ!とわがままこねやがって、蘇我邸を退去し
たことなど、内部でも分裂していたようです。巨勢臣も結局葛城皇子側に走ってますし。


飛鳥寺です。ここに葛城皇子らは陣を張りました  「入鹿の首塚」です。向こうは甘橿丘です
    


当時、蘇我本宗家の邸宅は、甘橿丘にあったそうです。甘橿丘は聖なる丘として、古い時代に
は盟神探湯(くがたち)が行われた神聖な場所でした。
邸宅の門は「宮門(みかど)」と呼んで、漢直らに護らせ、子供たちは「王子(みこ)」と呼んで
云々と、蘇我が専権していたようなダークなイメージで捉えられがちですが、対朝鮮半島との関
係が緊迫していた頃であり、大和の防備という面(山城として利用しようという意図)があったの
ではないか、と近年ではそう云われています(ほらやっぱり蘇我は悪くない)。

葛城皇子らは板蓋宮の北門のすぐ近くに位置する飛鳥寺(法興寺)に陣を張りました。位置関
係としては、飛鳥寺ー首塚ー甘橿丘という感じです。首塚をはさんで対峙しているようで、ここ
に来るといつも緊張してしまいます。

13日、毛人様は、手許にあった天皇記や国記、珍宝に火を放ち、自害したということです(『藤
氏家伝』によります)。燃え始めた国記を船史恵尺(ふねのふひとえさか)はそのとき素早く取り
出して、中大兄(もうこうなったら大兄を襲しているだろうし)に献上したそうです。この日、蝦夷
様と入鹿様の屍を墓に葬ることと、死を悼み悲しみ泣くことが許されています(私も泣いたサ
ー、当たり前だ!)。

甘橿丘東麓からは焼けた土器などが出土されています。それらは同じ頃の山田寺の土器(お
よそ641年頃)とほぼ同じ、またはやや新しい特徴を持つものだそうで、甘橿丘の蘇我邸との
つながりが期待されます。


甘橿丘中腹にある万葉歌碑です



甘橿丘は展望台となり、飛鳥を訪れる人は誰でも登る場所となっています。飛鳥が一望できる
この場所に来るといつも、思わず飛鳥寺方面を睨んでしまう私・・・。毛人様はどういう思いで飛
鳥寺(蘇我の寺なのに〜!)に陣取る葛城皇子らを観ていたのか・・・。

万葉集巻二51番歌が中腹万葉歌碑に記されています

  従明日香宮遷居藤原宮之後志貴皇子御作歌

           うねめの そでふきかへす あすかかぜ みやこをとほみ いたづらにふく
 [女采]女乃 袖吹反 明日香風 京都乎遠見 無用尓布久


50番歌が藤原宮を造営の様子などを描き、51番歌が古京明日香を偲ぶ歌、52番歌が新都
藤原宮を誉める歌、という順序となっており、これは遷都(みやうつり)の際の儀礼のようなもの
であると考えられています。よくわかる例としては、『万葉集』巻第六1047番歌〜1049番歌
の「悲寧楽故郷作歌一首并短歌」と、1050番歌〜1058番歌の「讃久迩新京歌二首并短歌」
です。


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