藤原宮周辺史跡〜哭沢女神社〜


資料館隣には、こじんまりとしていますが、哭沢女神社があります。ついつい見逃してしまいが
ちなんですが。本当の名前は畝尾都多本(うねおのつたもと)神社といいます。延喜式内社で
す。ご神体は泣(啼)澤女命で、本殿はなく、玉垣に囲まれた空井戸をご神体としているそうで
す。ちょうど石碑を撮った直後から天気が悪くなってしまって・・・ご神体を写真に撮るってのに
もどうも抵抗ありまして・・・。緑豊かな神社です(豊かすぎて薄暗い時には少々怖い気が)。
位置としては香具山西方にあります。

石碑です                神社内の万葉歌碑です
     


石碑の内容です。
此の神社は古く古事記上巻約千二百五十年前香山の畝尾の水本に坐す名は啼澤女神日本
書紀畝丘樹下所居神延喜式式名帳畝尾都多本神社鍬靫(この2字ちゃんとわかりませんでし
た)万葉集巻二或書の反歌類聚歌林檜隈女王の歌であり。
石長比売命は寿命を司り泣澤売命は命乞の神なり 平田篤胤玉欅
春雨秋雨等語源的に澤女は雨に通ず水神なり(本居宣長古事記伝)

『古事記』によると、イザナミ命が火の神を産んでみまかった時、イザナギ命が泣き悲しんだ時
に流れた涙がこの神であるということです。

泣女(ナキメ)の風習は、古い時代の葬送の儀式の際に、悲しみを表すために声を挙げて嘆き
悲しむことを勤めとした集団があったと言われています。
蘇我本宗家が消滅してしまった時にも、毛人様と入鹿様の屍を墓に葬ることと、死を悼み悲し
み泣くことが許されているのですが、「泣く」という行為は、こういう「泣女」などが勤めたのでしょ
う。

『万葉集』には巻二202番歌に、高市皇子が薨じた際の殯宮においての人麻呂作歌(199〜
201番歌)に続いて、その或書反歌とあります。高市皇子薨去関連歌として、檜隈女王作歌と
類聚歌林にはあるようです。

  なきさはの もりにみわすゑ   いのれども わがおほきみは たかひしらしぬ
  哭澤之 神社尓三輪須恵 雖祷祈  我王者    高日所知奴

 右一首類聚歌林曰 檜隈女王怨泣澤神社之歌也 案日本紀云 十年丙申秋七月辛丑朔庚
 戌後皇子尊薨

亡くなった高市皇子は、天武天皇皇子で一番年長でしたが、母親が地方豪族の娘であったた
めに皇位継承権は後ろの方でしたが、最終的には太政大臣までなりました。壬申の乱の際も
唯一活躍した天武皇子で、天武天皇からは絶大な信頼を得ていたようです。多分持統も信用
していたと思われます。皇子は長屋王の父親として有名です。宮は香具山宮と云われており、
この神社とも近い場所にあったと思われます。そのこともあって、この歌が皇子薨去の際のも
のと関連づけられ、人麻呂作歌である高市皇子挽歌のあとに配置されているのであろうと思わ
れます。





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