藤原宮周辺史跡



明日香に行くと必ず寄るところに、奈良国立文化財研究所 明日香藤原宮跡発掘調査部(私
は勝手に藤原宮資料館と言ってます)があります。ここは先月来、何かと話題の藤原宮につい
て調査研究している機関でして、藤原宮に関する資料などが展示しています。
この資料館も藤原宮址の中にありまして、隣には、哭沢女神社もあります(結構見逃されてる
ようですが)。


      資料館の庭には、当時の建物(というより壁)を復元しております。
   


藤原宮は、今も発掘調査が続いており、この前、中ツ道関係のもので脚光を浴びたばかりで
すが、今もその規模についてはさまざまな学説があるようです。最初は岸説藤原京という、平
城京の1/3規模の大きさの宮都であったという考えが広く受け入れられていましたが、後、岸
説藤原京外での条坊遺構が発見されたことにより、岸説よりも東西幅では2.5倍、つまり5.
3キロに及ぶと類推されました。そして1980年に秋山日出雄氏による「大藤原京」説が提唱さ
れたことにより、藤原宮は平城京に並ぶ大きな都であったと考えられるようになりました。現在
の有力な説は何説かあるのですが、おおまかには、「外京説」「拡大説」「本来説」などに分か
れます。

所在地についてはいろいろ言われていたようですが、昔から「大宮土壇」と言われるところがあ
り、そこが藤原京の大極殿跡ではないか、と以前から言われていたそうです。結果、そこが正
しかったわけです。昔からの言い伝えはバカにできない、という証明ともいえるでしょう。


「大宮土壇」遠景です      角度を変えて撮りました    藤原宮大極殿跡の碑です
    


藤原宮は日本最初の本格的な都といっても良いものであり、その計画は天武天皇時代から進
められていたらしく、木簡などがそのことを証明しています。大和三山に囲まれた、藤原宮への
遷都は694年12月、そして16年後の710年に平城京に遷都するまで、持統・文武・元明三
代の都として発展しました。ここで人麻呂など、私にとって身近な人々が生活していたということ
です。

藤原宮に関する万葉歌には「藤原宮之役民作歌」と「藤原宮御井歌」があります。前者は藤原
宮を造営するにあたり、かり出された民が作ったとされ、木材を運ぶ行程などが記されていま
す。後者は藤原宮の井戸(御井)を誉めることによって、宮の清水を讃える、ミヤボメとなって
います。

藤原宮の資料館パンフです
       
 




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藤原宮関連万葉歌
藤原宮関連万葉歌