天童古城に行って来ました。ここは北畠天童丸によって築城された、とも言われているところで
す。城は別名、舞鶴山城とも呼ぶそうで、天童の市街のなかに、ポツンと高くそびえる山、とい う第一印象を抱きました。
天童という名の由来にも関連する、北畠天童丸ですが、顕家卿の末子である、または顕信卿
の子供である、と説がわかれているそうです。そして、天童丸が築城した云々ということは、地 元の方にとっても伝説の域を出ないようですが、一時期はこの城は南朝側にあったということ を示していると思われます。そして間もなく斯波兼頼の子直家の庶子頼直がこの地に配され、 以後、天童氏の居城となります。
城の入り口には、「波浮の港」で有名な、佐藤千代子の生家がありました(ってこの歌昭和三
年の歌なんですが、もうご存じない方多いでしょうね〜。私ぁ五番まで歌えます)。
車で頂上付近まで上ることが可能です。頂上付近の開けたところは、人間将棋の舞台ともなり
ます。
説明板です 天童山城趾図アップです 城趾図横の説明箇所です
説明箇所の内容です
舞鶴山に、最初に城が築かれたのは、南北朝時代の頃、南朝方の忠臣、北畠親房の後○○
(字がかすれてて)北畠天童丸が、吉野朝興隆の為、村山盆地を一望するこの地に、居を構え たのが初まりといわれている。
その後、北朝方の勢力が強まり、天授元年(一三七五)に、北朝方の成生荘の荘官、里見頼
直が、成生からこの地に城を移し、さらに堅固な山城にした。
この城は、全山を自然の城塞としたもので、周壁は、自然の浸蝕に任せた典型的な山城であ
った。山頂に本丸を構え、これを中心にして、西方の峰々には、八郎楯、小松楯などの補助楯 を設け、○○を○い守備させた。 大手門は山の東方、搦手口は西方に在って、北目や小路 には、それぞれ武家屋敷が建ち並び、門前には市が建つなど、活気ある城下町を形成してい た。
領主は代々、天童氏を名乗り、山形最上氏と肩を並べる奥州の名門として、その威容を誇っ
たが、十代頼久の時代に、義兄の山形城主最上義光に攻められ、壮絶な戦いの末、天正十 一年(一五八四)、十月十日、ついに落城し、頼久は、伊達家の家臣国分氏に逃れた。ここに 初代頼直から数え、二百九年間の長さにわたる天童山城時代は終り、以後この地に再び城が 築かれることはなかった。
その後、天童は最上家の所領するところになり、義光は山頂の本丸跡に○○権現を祀り、戦
死者の霊を慰めるとともに、一族の安泰を願ったが、その最上家も天童落城から三十八年後 の元和八年(一六二二)、徳川幕府によって改易となった。
尚、八幡山の南麓の古戦場には、天童方の戦死者の墓があり、四百年記念碑が建てられて
いる。(「天童の生い立ち」より)
成生(なりう)という土地は、天童市内でして、ここには板碑が沢山あるという(他の周辺地域に
比べて)、特徴的な土地でして、鎌倉時代は二階堂氏の所領だったそうです。里見氏は新田系 (後に斯波氏系統)の一族だそうです。
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