多賀城から奈良時代かと思われる門の遺構らしきものが出てきた、ということで、その説明会
がありました。朝方は雨降りだったのですが、到着してからはカンカン照りでした。
1時間ほど前に着き(駐車場が心配だったので)、ぐーすか寝ている娘は主人に頼んで、私は
周囲をうろうろ散歩してました。会場となる現場にも入れるし、すぐに資料はもらえたし、なごや かな感じでした。
以前多賀城に来たときは、お天気が悪くて写真がちゃんと取れなかったので、今回は多賀城
碑をちゃんと撮ろうと・・・。多賀城碑は、発掘現場や政庁跡とは道路をはさんで反対側にあり ます(つまり国府多賀城の門前にある、という感じです)。
説明板の内容です
重要文化財 多賀城碑 平成10年6月30日指定
多賀城碑は、砂岩を加工して碑面をつくり文字を彫り込んだもので、高さ約二メートル、幅約一
メートル、厚さ約七〇センチメートルで、碑面は西を向いて立てられています。
「多賀城 京去千五百里 蝦夷国界去百二十里 常陸国界去四百十二里
下総国界去二百七十四里 靺鞨国界去三千里
西 此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守府将
軍従四位上勲四等大野朝臣東人之所置
也天平寶字六年歳次壬寅参議東海東山
節度使従四位上仁部省卿兼按察使鎮守
府将軍藤原恵美朝臣朝(獣偏に葛)修造也。
天平寶字六年十二月一日」
調査関係者の方と意気投合し、お話を伺うことができました。この碑は倒されていたそうです。
なので保存状態が良いのではないか(風化せずに済んだ)ということです。というのは、この「藤 原恵美朝(獣偏に葛[カリ])は、恵美押勝の四男で、この2年後の天平寶字八(764)年9月の 恵美押勝の乱により、処刑されています。なので逆賊の一族である人が関わる碑が、国府の 門前にあるのはふさわしくない、という理由で倒されてたそうです。
そして江戸時代になり、水戸黄門さんが伊達綱村さんに、碑の保存のための費用を工面する
という話をしてくれはったのですが、伊達さんは自分とこでなんとかする〜!と見栄切ってがん ばらはったのだそうです。
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