多賀城跡第74次現地説明会

多賀城から奈良時代かと思われる門の遺構らしきものが出てきた、ということで、その説明会
がありました。朝方は雨降りだったのですが、到着してからはカンカン照りでした。

1時間ほど前に着き(駐車場が心配だったので)、ぐーすか寝ている娘は主人に頼んで、私は
周囲をうろうろ散歩してました。会場となる現場にも入れるし、すぐに資料はもらえたし、なごや
かな感じでした。


   発掘現場です                多賀城復元石段です
      

以前多賀城に来たときは、お天気が悪くて写真がちゃんと取れなかったので、今回は多賀城
碑をちゃんと撮ろうと・・・。多賀城碑は、発掘現場や政庁跡とは道路をはさんで反対側にあり
ます(つまり国府多賀城の門前にある、という感じです)。


多賀城碑です              脇の説明板です
         

説明板の内容です

重要文化財 多賀城碑 平成10年6月30日指定

多賀城碑は、砂岩を加工して碑面をつくり文字を彫り込んだもので、高さ約二メートル、幅約一
メートル、厚さ約七〇センチメートルで、碑面は西を向いて立てられています。

「多賀城 京去千五百里  蝦夷国界去百二十里 常陸国界去四百十二里
      下総国界去二百七十四里  靺鞨国界去三千里

 西  此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守府将
     軍従四位上勲四等大野朝臣東人之所置
     也天平寶字六年歳次壬寅参議東海東山
     節度使従四位上仁部省卿兼按察使鎮守
     府将軍藤原恵美朝臣朝(獣偏に葛)修造也。

              天平寶字六年十二月一日」


調査関係者の方と意気投合し、お話を伺うことができました。この碑は倒されていたそうです。
なので保存状態が良いのではないか(風化せずに済んだ)ということです。というのは、この「藤
原恵美朝(獣偏に葛[カリ])は、恵美押勝の四男で、この2年後の天平寶字八(764)年9月の
恵美押勝の乱により、処刑されています。なので逆賊の一族である人が関わる碑が、国府の
門前にあるのはふさわしくない、という理由で倒されてたそうです。

そして江戸時代になり、水戸黄門さんが伊達綱村さんに、碑の保存のための費用を工面する
という話をしてくれはったのですが、伊達さんは自分とこでなんとかする〜!と見栄切ってがん
ばらはったのだそうです。








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多賀城跡第74次調査現地説明会二
多賀城跡第74次調査現地説明会二