石清水八幡宮由緒略記
創建
南都大安寺の僧行教は、清和天皇の貞観元年七月十五日豊前国宇佐八幡大神の「吾れ都
近き石清水男山の峯に鎮座して国家を鎮護せん。」との御託宣を蒙った。仍って木工寮権充 橘良基は宣旨を承けて六字の寶殿を建立し、翌貞観二年(平成十六年より千百四十四年前) 四月三日、此處に三所の神璽を奉安せられたのを当宮創建の起源とする。
附記
男山
本宮所在一帯の山名で、古記に雄徳山また牡山、丈夫山ともあり、御鎮座以来八幡山と唱う
るに至った。地勢、南は洞嶺を経て生駒山に連り、北方は断絶して、木津・宇治の二大川に臨 み、ここに桂川を合し三川合流して淀川を作る。天王山は水を隔てて西に在る。相対して京師 の関門を為している。
鳩嶺
本宮御座所の山名を古くは鳩嶺とも称し、山上に鳩の多かった故であると。
石清水
男山の東半腹、摂社石清水社の前にあって、玄冬にも氷らず大旱にも涸れない霊泉で、往
古から禁廷の御祈祷、及び将軍家の祈請に当って、此霊泉を八幡宮に献るのを例とした。今 の泉殿は元和四年戌午九月、板倉周防守重宗が幕命により修築したものである。同社に在る 石鳥居は、寛永十三年丙子八月、将軍家御祈祷の為に板倉侍従従四位下兼周防守源朝臣 重宗寄進の由が石柱に刻され、筆者は松花堂照乗である。
細橋(ササヤキバシ)
東総門外、伊勢神宮遙拝所前に在る石橋を云う。常に四隅に榊を建て、注連を張って往来
を禁ず。ここは石清水の上流に当るので穢に触れることを忌んだによるものである。
一個石(ヒトツイシ)
馬場の末、三の鳥居内に在る。古昔、御本宮と此一個石との間に於て、御千度御百度を踏
んだ處である。弘安年間、蒙古襲来の時朝廷の仰出により、道俗千度詣をした古蹟である。
三の鳥居
正保二年正月の建造で、奉行は永井信濃守大江尚政である。昭和三十六年九月、第二室
戸台風の暴風により倒壊し、現在の鳥居は同三十七年十二月に再建されたものである。
駒返橋(コマガエシハシ)
石清水の下流影清塚の傍にある。古昔、此辺は嶮岨で登山し難かったので此處より馬を返
した故に名づくという。
影清塚
本道筋の石清水社に参る辺に一堆の柏樹繁れる處である。此處は石清水の下流にあたり、
古は参詣の人達がこの流れに自分の影を写して不浄を祓い清めたにより、此の名があると云 うが詳かでない。
絹屋殿地
二の鳥居前に在って、毎年石清水祭の時仮屋を建て、絹幔を張る。渡御の節、三基の鳳輦
此處に着御、里神楽を奉奏し、次将着陣の後更に頓宮に進む。即ち此處より上卿以下供奉し て神霊は頓宮に入御、奉幣の儀が行われる。
一の鳥居
此の鳥居の額は一条天皇の勅願で藤原行成卿の筆であるが、現在神庫に保存する。今の
板額は行成卿筆跡の儘を松花堂照乗が写したものである。
藤井
高良社の前にあって、八幡五水の一つである(石清水、藤井、筒井、山井、閼伽井これを八
幡五水と云う)
筒井
一の鳥居内にあって、八幡五水の一つである。
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