宗良親王関連地〜高岡・牧野地区〜


庄川の東岸に位置する牧野地区(殆ど新湊市に近いです)は、後醍醐天皇第八皇子・宗良親
王が三年間過ごした場所です。皇子母は二条為世娘為子で、信濃宮などと呼ばれます。後醍
醐天皇と笠置山などにおりましたが、捕らえられて讃岐に流されます。が、宮方勢力挽回ととも
に帰洛し、また天台座主になり、遠江や越後など転々とし、南朝勢力維持のために奮闘しはっ
たそうです。宮は歌をよく詠まれたようで、越後に関する歌なども多く残っているとのことです。

このお寺さんは長福寺という名前で、「あやまちの寺」と地元の人から慕われています。この
「あやまち」いうんは、地元の方言で「骨折・ねんざ」の意味だそうです。このお寺さんは接骨・
整形医院などもかねているところで、地元の方がよく集う場所のようです。


    趣のある門です             本堂です

    


  お寺の鐘です                  お寺にあった宮の歌碑です
    

このお寺さんの当時の住職浄観さんが、戦に敗れ、北国に逃れてきた宮を篤く介抱したと言わ
れているそうです。

歌碑の歌を記します
 思ひきやいかに越路の牧野なる草の庵に宿からむとは

同じく牧野地域で、このお寺のある地域内に、宮が住んでいたと言われる屋敷跡碑があるとい
うので、ご住職に地図を書いてもらいました。しかしそれでも最初わからず、結局主人がこのほ
っそい道入っていくんちゃうんか、という一言で、やっとこさわかりました(実は道に迷い、主人
が待つ車までたどり着けへん!と思うほど、私にとってはややこしい集落でした)。 

その宮の屋敷跡は「樸館塚」(ぼっかんつか)と呼ばれ、碑までありました。ここで宮は三年過
ごしたそうです。黒木の丸柱の粗末な宮であったそうで、「黒木のお館」と呼ばれていたというこ
とです。しかし武家方の探索が厳しくなり、証拠を隠すために館を埋めて塚にしたことから、「樸
館塚」というようになったそうです。この碑は文化七年に建立されたそうです。
    

塚のそばにある説明板の内容を記します

 樸館塚は、後醍醐天皇の第八皇子である越中に滞在した際に居を構えた仮宮のあったとこ
ろである。樸館塚は、この仮宮が黒木造りの館であったことから「黒木塚」とも言われている。
 宗良親王は、応長元年(1311)に生まれた。妙法院に入り、尊澄法親王と称して後に天台
座主にもなった。元弘の乱では父である後醍醐天皇を助けたが、鎌倉幕府方に捕らえられて
讃岐に流されている。延元2年(1337)に還俗して宗良親王と名乗り、伊勢、遠江、越後、越
中を転戦し、信濃で亡くなったと言われている。
越中の奈呉浦に海路で到着したのは興国3年(1342)のことで、牧野の地で最初に宿を取っ
たのが上牧野の長福寺であったと伝えられ、その後は黒木の館を本拠にして南朝勢力の拡大
活動に尽力した。
 この時親王に従ってきた者は、源氏系の石川、荒木、結城などの諸氏であり、また越中の土
豪側で親王を迎えたのは、高木城及び木舟城に拠っていた石黒、稲上、柴田、本間、坪内、
姫野の諸氏であると伝えられている。
 ここに建てられている「八宮樸館塚」の石碑は、江戸時代の儒学者・経済学者であった海保
青陵(1755〜1817)漢詩漢文による碑名である。長福寺の住職によって文化7年(1810)
に建てられた。
 親王はこの地で「安養山極楽寺」を建立し、父帝の3回忌の法要を営んでいる。現在、この
極楽寺は博労町に移されている。             高岡市教育委員会

 宗良親王は武将としてまた歌詠みの皇子として知られており、牧野次の歌が残されている。
(下牧野公民館の雪見ヶ丘)

 故さとの人に見せばやたち山の千とせふるてふ雪のあけぼの
 玉くしげ二上山を見るたびに都のふしとおもひわびぬる
 おもひきやいかに越路の牧野なる草の庵に宿からむとは
 今はまた問ひ来る人も奈古の浦にしほたれてすむ身とはしらなむ  (李花集)

実はその公民館の歌碑を探すつもりが、探しきれず、下牧野地区の白山社の前を通りまし
た。ここに歌碑があるかなぁ、と思い、車を停めてもらい、由来書を見ると・・・後亀山天皇の嘉
慶年間にm宮に請いて廟が創造された以前から産土神社として祀られていたそうです。この牧
野という地名は、宮を支持した牧野太郎次という者が住んでいた場所であることにちなんでつ
いたということも書かれていました。

 

牧野太郎次については、地元で言い伝えがあるようです。彼が亡くなって埋めたところに水が
たまったそうです。で、人を招いたときなどに料理が足らなくなりそうな時に「ごぜん何人かして
下さい」と頼むと翌朝ちゃんと足りない分が置かれてあったということです。今ではその水たま
りはどこにあるのかわからないということですが・・・。

塚碑のある土地のお家は坪内さんとおっしゃるそうですが・・・支持した地元豪族の坪内氏と関
連あるんでしょうか・・・。





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