北畠顕信卿関連史跡〜塩竃神社〜


鹽竃神社に行きました。ここは奥州一の宮として古くから、歌枕の地としても有名です。
顕信卿は直接関係しているとは言い難いのですが、いわゆる畠山国氏VS吉良貞家の「岩切
合戦」の関連地ですのでアップします。

ちょうど京都では観応の擾乱が起こり、それに連鎖する形で、直義擁護派と尊氏擁護派とが
分かれて権力闘争をした、という感じです。それにつけいる形で、顕信卿は府中奪回作戦を行
うので、兄弟喧嘩バンザイ!という気持ちでしょうか(笑)。

室町時代に成立した「余目記録」には、畠山国氏は岩切城の留守家任を頼ったけれど、劣勢
はどうしようもなくて、夜にひそかに鹽竃神社に逃れたのですが、結局三〇人ほど吉良方に引
き出されて斬られた、と書かれているとのことです。

   

この道は創建当時から使われていた「七曲坂」というものです
 

説明板の内容を記します。

 七曲坂は鹽竃神社参道(表坂・七曲坂・裏坂)の中で最も古く、その形成は、神社の創建と同
時期の奈良時代頃と推測されている。
 往時(古代・中世)は、国府・多賀城から香津(国府津【こうつ】ー古代市街地/第一小学校周
辺)へ至る東海道を鳥居原(古代の市場/塩竃高校校庭)へ江尻へ下り、入江となっていた祓
川を舟(鎌倉時代に架橋【御臺の橋】)で渡って当坂へ至る道筋であった。
 さらに上野原(古代の野菜採取場)や、利府春日、松島方面へ通じる重要な生活道路ともな
っていた。
 なお当坂下の四方石辺りは作道時の排出土砂を用いて海面を埋め立て造成されたもので、
神社創設以来の神官阿部家が江戸時代初期まで約一千年間屋敷を構え参道口を守っていた
と伝えられている。
 享保一六年(西暦一七三一年)から近年まで、祭礼の時には御輿の帰る道筋となっていた。
                          (塩竃市教育委員会)

鹽竃神社の説明板です             神社全体の見取り図です
 

説明板の内容を記します。こんなん前行ったときなかった思たら出来たばかりでした。

国重要文化財指定 鹽竃神社

 古来、陸奥国一宮と称されている。その創建年は不明であるが、弘仁式主税帳(八二〇)の
記録から、九世紀前半には朝廷より祭祀料をいただく有数の神社として存在していたことがう
かがわれる。
 古代においてはこの地が陸奥国府・多賀城の国府津であったこと、陸奥国内の製塩の中心
地であったことなどが、鹽竃神社の創建や社名に関連していると考えられている。
 その後、平泉の藤原氏、陸奥国留守職の伊澤氏、仙台藩主の伊達氏などの庇護を受け、今
日にいたっている。これらに関係する人々や神社と縁のある人々の寄進した文物等が境内及
び鹽竃神社博物館に多く見られる。
 現代の社殿は、第四代仙台藩主・伊達綱村が元禄八年(一六九五)に塩竃の町づくりと共に
神社造営の工事に着手し、宝永元年(一七〇四)第五代藩主・吉村の完成したものである。
 「三本殿二拝殿という全国でも類例がほとんどない社殿構成で、整然とした配置計画も優れ
ていること。本殿・幣殿・廻廊は正統で装飾を抑えた意匠で、拝殿の古風な細部様式や門等の
華やかな様式と絶妙な階調を創り出していること」
 これらが江戸中期の神社建築として価値が高いと評価され、平成一四年(二〇〇二)十二
月、国の重要文化財に指定された。
                          平成十五年三月 塩竃市教育委員会

その中で、神馬さんがいはる馬舎があるのですが、そこの奉納一覧板を見ると・・・
1356年 奥州探題 治部大輔 斯波直行、1360年 奥州探題 宮内大輔吉良貞経
とあるのです。斯波直行って誰?ということで、いろいろ諸先輩方にうかがいました。時期とし
ては斯波直持さんしか考えられないわけでして、もしかしたらその頃は直行って名乗っていた
のかも、という考え方を教えていただきました。なるほど〜。誤字とも考えられますが、そうかも
しれませんね。またはほんとに直行さんという人がいはったのかも・・・。

問題の神馬奉納一覧板です






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