戊辰戦争関連地〜鹽竃神社〜


鹽竃神社に行ってきました。というのも、地元ニュースで、ブリュネさんの記念碑が、8/26日
表参道前に出来たというのです。で、早速行ってきたというわけです。

ブリュネさんは新政府を支持した駐日仏公使を非難し、榎本武揚さんらと共に佐幕派として、
旧暦の8/26に、函館に行く途中で、この塩釜港(浦戸寒風沢)に一月ほど滞在しはったそう
です。

絵は、だいたい絵の隣写真の角度(それよりもうすこし下がった地点からだとは思いますが)か
ら、竃神社を描いたもののようです。

    

これが8/26に出来たモニュメントです。

  

内容を書き写します。

ジュール・ブリュネ(1838〜1911)

幕府要請のフランス軍事顧問団の一員として慶應3年(1867)に来日。
 戊辰戦争で新政府を支持した駐日フランス公使を非難、榎本武揚ら徹底抗戦を唱える幕臣
に共鳴し、旧幕府艦隊8隻と共に函館に逃れる途中、浦戸寒風沢(塩釜港)に奇港したのは目
地元年旧暦8月26日(1868年新暦10月12日)であった。
 艦隊は修理や物資補給、新選組や会津藩士乗艦のため一ヶ月ほど停泊したが、その間ブリ
ュネは榎本に伴われて仙台藩主伊達慶邦に面会、主戦派の軍議に出席したり、南境の戦線
視察をしながら仙台周辺を歩き回り、刻明なスケッチを何枚か残している。
 外国人による本市を描いた最も古い作品となる「鹽竃神社表参道」のスケッチは、一行が鹽
竃神社を参拝した後に、融ヶ岡(塩竃公園)の中腹から描いたものと思われ、画面左下の「日
の丸」の旗は、明治改元(1868年新暦9月8日)に関連するものと推測される。
 (原画には日付、場所、説明の記載なし)
 なおブリュネは、明治2年旧暦5月1日(1869年新暦6月10日)、五稜郭落城直前にフラン
ス軍艦に逃れ、本国に連れ戻される。
 パリで軍事裁判にかけられるが、軽い処罰で許され、後に陸軍参謀総長まで昇進した。

スケッチの行方と発見
 
 ブリュネの作品は未発表のまま本国に持ち去られたが、日仏交流史の研究家であるクリス
チャン・ポラック氏が十年がかりでブリュネの子孫を捜し出した。
 またポラック氏は1988年に孫のアンドレの未亡人カトリーヌさんを函館に招き、榎本武揚の
子孫と対面させ、作品を道立函館美術館で公開した。
 なおその機会に、かねてよりブリュネ研究を支援してきた中央公論社社長 嶋中鵬二氏によ
り、「フランス士官 ブリュネのスケッチ100枚」がムックとして刊行された。
 この時、函館を訪れていた本市文化財保護委員である小川澄夫氏が、偶然スケッチ集に気
づき、美術館を訪れて「お寺の階段」と題したこのスケッチが、鹽竃神社表坂の風景であること
を確認し、マスコミを通して広く紹介し話題となった。
 ブリュネの偉業と関係者の努力を讃えると共に、日仏交流、本市の貴重な郷土資料として、
このスケッチを展示するものである。  2004年8月26日 塩竃市


だいたいこんな感じの角度から描かれたようです。(左が絵、右が参道からの写真)
   

これは階段を上りきったとこからの写真です。モニュメントは鳥居近くの左側なんですが、見え
てません・・・。
 

モニュメントが置かれている場所は、下写真をご参照下さい。これより手前が車道になります。
塩竃神社は表参道前には駐車場は無く、この写真を撮るならば、停車程度は可能ですが、ず
っとの駐車は神社の階段を上がりきったとこと同じ高さに何カ所もあります。駐車場へはこの
表参道を通り過ぎなければいけません。おかげでこのものすごい階段、上がったことありませ
ん・・・。

 

これはオマケです。参道そばにあります「さんこ茶屋」というところの名物五色餅です。五色餅
いうたら、その昔、平泉レストハウスにも普通のお餅の大きさが二つ×五種類の味付けとい
う、餅好きには「もうたまらん!」とのどにつかえても本望!と思えるほどのメニューがあったの
ですが・・・。これもとっても美味しかったです。これは一口サイズでした。手前緑色のがづん
だ、その左隣がしょうゆ(みたらしっぽかったです)、ごま、くるみ、こしあんでした。




ピンボケしましたが・・・神社から塩釜港方面の写真です。


以前撮った塩釜港からの写真です







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