北畠氏関連史跡〜溝延城跡〜


溝延(ミゾノベ)城跡に行きました。住所としては、山形県西村山郡河北町溝延というところにな
ります。寒河江川が西に、最上川が東に流れている、デルタに位置する場所にあります。西
(寒河江川向こう岸)には、寒河江大江氏の居城があった寒河江城が、東には北畠天童丸が
居たと言われる、天童古城があります。


溝延城跡碑です   表全体図です
       

溝延城も、寒河江氏の支城のひとつであったそうで、デルタ地帯となっていることからも、交通
の要所であったようです。そして大江氏といえば、北畠氏を含む南朝派の武将として、最後ま
で南朝に与してくれた、ありがた〜い一族・・・。なので寒河江〜溝延〜天童〜北畠神社〜山
寺ラインは南朝ラインなのかもしれません。しかし天童のやや北には、武家方とおぼしき、成
生(なりう)庄に住まう里見氏などがいるので、すんなりと通行できていたのかはわからないの
ですが・・・。

溝延は、田んぼに囲まれた集落でして、城跡は今は公園となっています。本丸があったと言わ
れるところを公園として、城が縮尺した形で記されています。最初それがわからなくて、めちゃ
狭い城っ!と思ってしまいました(アホで〜す!)。なので、公園は集落のちょうど真ん中あたり
にありました(これが探すのが大変でして)。集落全体がお城であったような感じで、用水路が
流れているのですが、なんとなく堀っぽいというか・・・。


盛り上がった石が本丸を示しています    その石のアップです
       


     

天童周辺には周囲田んぼで、どうも集落全体が城に関わる地域?というイメージを抱かせると
ころが他にもあります。天童市中心部より西に位置する「高擶(たかたま)」というところも、アヤ
シイ感じがします。
  
表に説明板があったのですが、ぼやけて見えませんでした。が、コンジョーでメモってきまし
た!雨がじゃじゃ降りだったのですが、めげませんでした〜!

内容です

寒河江城の支城として築城された。城の形状や規模は寒河江城と似ており、堀や土塁で形造
られた平城である。
初代城主は大江氏七代時茂の長子溝延茂信。河北・河東方面に対する防備の要所だったの
で、長子を配して強化を計ったと思われる。
天正年中、最上氏に下り廃城となったが、ここはその本丸跡である。

溝延茂信は、時信ともいうようで、「家紋World」(HARIMAYA様)様の「武家家伝ー寒河江氏」
には、「時信」ともありました。

顕信卿と同時期の大江氏当主は、時茂の前代の元政となるようです。彼は正平七年に戦死し
たということだそうです。正平七年といえば、北畠神社近くでの戦い(阿谷古戦場)は正平六年
十一月・・・。または宮城県の船岡城跡で陣を張ったのも、正平六年・・・。ちょうど顕信卿があ
れこれし出した頃のようです。

茂信の父時茂は、正平二十三年、漆川の合戦(北朝の斯波頼兼氏との戦い)で、一族六十余
人が戦死したとのことです。正平二十三年頃は、もう顕信卿の足跡が、文書などでは分からな
くなっていく頃です。大江氏はその後、北朝に下ったと言われているそうです。

なのでこのお城は、少し顕信卿の活躍時期とはやや時代が異なるかもしれませんが、北畠氏
にゆかりの深い、大江氏の城のひとつとして、アップすることにしました。

大江氏の詳細は
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sagae_k.html
(武家家伝ー寒河江氏)をご覧下さい。

武家家伝の管理人様のHARIMAYA様には、ご許可をいただいております。
HARIMAYA様、ありがとうございました。

  HARIMAYA様のHP
   
    





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