山形県・戸沢藩舟番所


清川村に行く途中、最上川沿いに「戸沢藩舟番所」というところがあります。今はそこから最上
川下りを楽しむ発着点となっておりますが、江戸時代にはそこが番所でした。

舟番所には「おしん」の顔をはめて写真撮るという、アレなどがありました。娘にやらせたら、結
構ワラエタ・・・(笑)

最上川です               道の駅とざわからの眺めです
      



戸沢藩舟番所です       この奥から最上川下りの舟に乗ります
      



2枚ある説明板の右のものです       左側の説明板です
      


右の説明板の内容です

由緒

元和八年(一六二二)出羽之国の改易によって六十五ヶ所の楯主は散り散りになった。
その後幕府は出羽之国の大名の大巾な配置転換を行い新庄藩祖戸澤右京亮政盛公は
茨城県松岡から新庄に転封され六万八千二百石を給され新庄に入部した。時に元和九年
(一六二三)七月のことであった。儒後十一代正実公迄築城から明治戊辰で廃城となる迄
その間二五〇年藩政時代に一回の国替えもなく戸澤氏のみに統治された。その領域に
戸澤藩口留番所として領内では同時に堀之内、柏沢、三ツ沢にも置かれ、古口番所は
川舟改所を兼ねて享保八年(一七二三)新庄藩が七ヶ條の條目を出し古口が駅場として
整備された。古口が駅場として栄えたのは古口より下流は所謂最上峡とよばれる峡谷で
古口より先に陸路がなくて全て最上川舟運に頼らねばならない船着場としての要地と山紫
水明の産物にも恵まれていた。「新庄村鑑」によれば寛文四年(一六六四)の村高は六九八
石とありこゝより下流の小部落は全て古口村の枝郷ととなっていた。この僅かな石高の中に
舟番所の役人は二本差の帯刀を許され二百石(五百俵)の資格を与えられていたといふ
から、いかにこの舟番所が川舟荷物の出入りを監視する重要な地点と役割であったかが
窺える。最上川は出羽之国交通運輸の動脈として、奈良平安時代から大正の初め迄活用さ
れて来た。その間往来の舟は風に帆を任せ隊を組んで上下するさまはまことに牧歌的であ
った。
陸羽西線新庄古口間は大正二年に開通し翌三年に酒田迄開通したものである。
舟改メについての定は次の通りである。

船改定書
一、御料御城米之外下り船之分ハ積荷状ヘ引合相違無之候ハハ可相通但登船ハ改無二
 可相通事
一、船中改之義前々之通 トマヲツキ上ゲ 排(荷物の排列)ヲ以テ手間取不申様ニ相改
 可申事
一、積荷状之外紛荷物有之候ハハ其品計留置、早速相通可申事

 享保八卯年三月 新庄領主
 古口村番人 二代戸澤上總之介正誠






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