山形藩にスポットをあててみました。幕末の山形藩は、他の藩同様、幕府側につくか、薩長側
に付くべきか、藩内でも意見が分かれたり、いろいろ苦労が多かったようです。
山形藩は藩主がころころ変わっていたようで、江戸後期においては、明和四(1767)年から嘉
永二(1845)年頃までは、秋元家が藩主(1845年に栃木県館林に移封)でしたが、その後は 最後の山形藩主である水野家が幕末までおりました。
ただ、藩主はほとんど江戸詰めであり、幕末の情勢に関しても、主席家老である水野三郎右
門元宣に任せっきりで、「時期を見て、薩長につけ」とだけ言い渡されただけであったそうで、 家老の水野氏の苦労は並大抵のものではなかったということです。
家老の水野三郎右門元宣像は、豊烈神社境内にあります。折しも工事中でしたが、像だけは
出ていました。
幕末、水野家の藩庁は、旧山形県立病院にあったそうです。山形藩は苦しい財政事情から幕
末の難局を乗り切るため、御用商人(主に紅花四[幕末には五人]人衆)からの御用金を要請 したということです。その額6万3千両!!実際にはいくら御用商人でも「はい、さいですか」と 出すことが出来るわけもなく(それでなくても年に500両以上御用金を治めているというの に)、結局は1万両弱ほどとなりました。
像の説明板の内容を記します。家老水野三郎右門元宣の経歴を紹介する文です。
水野三郎右ェ門元宣は、天保十四年(一八四三)遠州浜松に生れ藩主のお国替えにより弘化
三年、四才の時山形に移住し、二十二才の若さで家老職を継いだ。文武両道に優れ家中藩 士の信頼を一身に集めた。明治維新の政変の際、藩主は京都に居って不在のため、藩の運 命は弱冠二十六才の首席家老元宣の双肩にかかっていた。慶応四年春薩長軍(官軍)は仙 台から山形に進入し、山形藩は官軍の命を受けて庄内征伐のため長崎口まで進撃したが、荘 内軍の不意の襲撃に合い損害を受けて敗走、戦火は山形市街地の目前に迫った。元宣は領 民を救うため心身憺身を挺して奔走し山形市民を兵火の災害から救った。
山形藩は当初官軍についたが、薩長軍の参謀世良修蔵の横暴さに憤慨した仙台、米沢の両
藩の呼びかけに応じ、東北各藩とともに奥羽同盟を結成し官軍に反抗することとなった。しかし 間もなく各藩相ついで降伏することとなり、新政府からの反逆の罪に問われた際元宣は「山形 藩の責任はすべて自分一人にあり、他の者には寛容の御処置を」との嘆願書を提出し、他に 犠牲者を出さないよう努力した。翌明治二年五月二十日藩の責任を一身に負い二十七才を最 期に長源寺庭において刑死した。
明治維新当時の山形藩は五万石であったが財政は苦しく充分な武器の備えもない状況の中
で官軍と隣接大藩との板ばさみにあい山形藩をいかに保全するか元宣の苦悩は大変なもの であった(以下略)
お寺とお墓とは、今は道を挟んでおりますが、おそらく当時は一帯が境内であったのかと思っ
ています。
官軍から庄内藩追討命を受けたとき、元宣は苦心の末、は庄内陣営に密書を送り「貴藩を敵
とするものではない」という旨申し送ったということです。それに対し庄内軍も諒承したらしいで す。命令が徹底しなかったのか、長崎落合を守備する山形軍は不意の襲撃を受け潰走しまし たが、庄内軍は追撃しなかったとのことです。微力であった山形藩はこのような手段を取らね ばならなかったのですが、元宣の苦渋の選択により、山形は戦禍を免れたといえましょう。
新政府になってからの藩への沙汰は藩主父子は無罪、子忠弘は明治2年、山形藩知事に任
命されるという、寛大なものでしたが、明治二年五月に発表された元宣に対する刑は刎首の極 刑でした。刑は同月二十日七日町長源寺の庭で執行されました。享年27才。町民は店を閉じ て家業を休み、その死に哀悼と感謝の意を表したそうです。墓は長源寺境内にあります。
一応切腹の形を取っているようですが、刎首ですので極刑だったようです。同じような運命に遭
遇したのは、お隣天童藩の家老吉田大八氏も弱冠26才前後という若い家老でしたが、やはり 切腹の形をとった刎首の刑になっています。米沢藩家老色部氏は、新潟で戦死しました。
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