上月城です。新婚旅行のついでに行きました。出雲から姫路方面に向かう途中、高速道路標
示に「上月」とあったので、二人とも「これは行かんならん!」と意見の一致をみまして・・・。新 婚旅行で上月城に行くなんざ、そうそう無いと思いますが、これを逃すと一生行けないと思った ので・・・(その時にはすでに東北暮らしは決まってましたんで)
登り口である大手門にはいろいろ碑があったんですが、私はなんとなくサムケがして気味悪か
ったので、主人に登ってきてもらいました(一人の時も寒かった・・・)。SAで購入した、「山中鹿 之助煎餅」をお供えしました。
遺構は曲輪、土塁、石垣、空堀などが見られるのと、本丸、三の丸跡には柱が建っていたそう
です。
上月城の沿革と攻防
上月城は、鎌倉時代末期(一三〇〇年代)に、宇野播磨守太田入道山田則景の息、上月次郎
景盛が、太平山(樫山)に初めて築いたと伝えられている。
上月氏は景盛、盛忠、義景、景満と続くが、そのいづれかの時、本城を谷を隔てた南の荒神
山に移しており、之が現在の上月城跡で、中世山城の様態をよく残している。
嘉吉の乱(一四四一年)で赤松氏は没落し、播磨は山名氏の支配するところとなったが、長禄
の挙(一四五八年)によって赤松政則が播磨を回復するも、山名、赤松、尼子等が攻防を繰返 し、弘治二年(一五五五年)赤松政則の孫、右京太夫赤松政之が置塩城より上月城に入り、 その子赤松蔵人大輔政範は西播磨五郡十六萬石を領し西播磨殿と呼ばれていた。
天正五年(一五七七年)、織田信長は毛利氏攻めの爲、羽柴秀吉を總大將として播磨に入り、
毛利に与した佐用の福原城を攻略し、高倉山に本陣を置き一萬五千の軍勢で上月城を包囲 し、救援に馳けつけた宇喜多直家の軍を退け、十二月三日遂に上月城は落城、政範は自刃し て果てた。秀吉は城中將士の首を悉くはねた上、見せしめの爲、城中の女子供二百人を串刺 と磔にして、備前美作、播磨の國境附近にさらした。今も地獄谷の名が伝っている。
秀吉はこの後を尼子勝久、山中鹿之助に守らしめたが宇喜多勢に攻められ撤退し、宇喜多は
之を上月十郎景貞に守らしたが再び秀吉軍により落城、景貞は敗退中櫛田の山中で自刃し たと伝えられる。
再び、尼子勝久、山中鹿之助は上月城に入ったが、毛利軍は山陰、山陽の両道より三萬の軍
勢を以て、天正六年(一五七八年)四月十八日、上月城を包囲した。秀吉は急ぎ救援の爲、高 倉山に陣を進めたが、三木城攻略の爲、六月二十六日、高倉山より兵を引いた。この爲、上 月城は孤立し遂に七月五日勝久は毛利氏に降伏し開城自刃した。山中鹿之助は備中の毛利 輝元の陣へ護送の途中、高梁川の合の渡しで斬殺され、その果敢な生涯を終えた。
上月城はその後、廃城となり今日に至っている。文政八年(一八二五年)赤松氏落城の時の
守將の末裔大谷義房が二五〇回忌を営み慰霊碑を建立し山上に残されている。
上月町観光協会 上月町歴史研究会
上月城は中世によく見られる山城だということです。本丸跡は結構開けていたということです。
でも、草ボウボウで景色はよくなかったようで・・・主人もちょっと寒かったらしく、怖々としていた そうです。そりゃ何度も攻められ、何度も落ち、自刃もアリなとこだし・・・。
本丸を別角度から撮りました 上月城遠望です
三木城の別所長治の裏切りによって、秀吉さんは軍を引いたわけですが、三木城の合戦も有
名な話ですし、鹿之助氏らが別所氏らとほぼ同時代を生きていたのだなぁ、と感じました。それ にしても、太閤さんはここら辺や三木では評判悪そうだなぁ・・・。
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