倒幕派関連史跡〜京都編〜

本当は新選組関係に入れようかと思ったのですが、写真枚数の都合上、倒幕派ということで。
伊東甲子太郎氏率いる御陵衛士と、薩摩関連の史跡in京都です。

伊東甲子太郎氏は、元治元年9月から江戸にて新入隊士を募集していた近藤勇氏に参加を
説得され、新選組に入隊(近藤氏とともに帰京)、入隊早々参謀職に就きました。この入隊によ
って名前を「甲子太郎」とした(その時の干支にちなんで)んですが、暗殺されるころには「摂
津」という名前に変えてます(この人、変節するごとに名前変えるんだそうで)。北進一刀流の
遣い手でもあり、頭脳明晰でもあったということです。

どうも入隊当所からなにやら目論見があった、次第に新選組の理念から離れていった等々、
いろいろ言われているようですが、とにかく、慶應三年に孝明天皇の御陵衛士という名目で、
新選組から分離して、最終的に、高台寺の月真院に屯所を構えたことから、高台寺党と呼ば
れました。月真院さんは、安く泊まれる宿坊として、海外からのバックパッカーさんなどにも人
気です。



月真院です                   油小路の殺害現場跡の碑です
   


名目は新選組分派として、倒幕を目論む輩の動向などを、近藤氏たちに報告するといいなが
ら、実は薩摩とも通じていたそうです。そして、坂本龍馬たちが暗殺される前日に、新選組が坂
本たちを狙っているという情報を伝えるため、坂本と面会していることから、土佐とも通じてい
たようです(なので一時期坂本らを暗殺したのは、御陵衛士たちではないか、というウワサがあ
りました)。

結局慶應三年十一月十八日、京都駅に近い、油小路木津橋通りで待ち伏せしていた新選組
によって殺害され、後、高台寺党の面々も、七条油小路で新選組隊士たちと戦い、その戦いに
よって高台寺党に走っていた八番隊組長であった藤堂平助氏も死亡するという結果となりまし
た。


御所前の薩摩藩邸上屋敷です     近江屋跡碑です。暗殺前日に来てたそうで
        
       

薩摩藩上屋敷の門は、今は私の出身大学である、御所前大学の大学院の通用門となってい
ます。すぐ隣が冷泉家です。薩摩藩下屋敷は、現・大丸京都店となっています。

薩摩関連で、御香宮神社まで行ってきました。ここは鳥羽・伏見の戦いの際、薩摩藩の本陣と
なった場所です。ここはお水が有名です。鳥羽・伏見の戦いは正月早々から始まったのです
が、よく考えてみりゃ松の内から迷惑なこった!!






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